編集の現場(連載第4回)――小宮帰国以前(和田と森田草平)   

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連載第2回で、和田と留学から帰国後の小宮が一体となって、『心』本文の精密な見直し作業を行ったことを述べたが(この続きは第8回以降で追加記述する)、和田は、それまで、小宮の帰国前まで手をこまねいていたということではない。以下のような標題の小型ノート(90 x 160 ミリ)7冊が現存する。「猫」〈正誤表〉」、「短編小説集(1)」、「短編小説集(2)」、「三四郎 それから 門」、「彼岸過迄 行人」、「明暗 (第三版)」、「質疑記帳」。

この7冊を配本順に示すと、以下のようになる。

3回   第7巻 「明暗 (第三版)」
4回   第1巻 「猫」〈正誤表〉
5回   第2巻 「短編小説集(1)」、「短編小説集(2)」
6回   第4巻 「三四郎 それから 門」
7回   第5巻 「彼岸過迄 行人」
8回   「質疑記帳」第6巻(『心』と『虞美人草』のちょっとしたメモ)

つまり、和田は、
配本第1回  10巻『初期の文章』『詩歌俳句』
配本第2回  11巻『日記』『断片』

については、連載第7回の後半で触れる、(そして既に連載第3回でも言及した)和田から安倍能成への問い合わせ書簡以外には具体的な資料を残していないが、配本3回からは、小宮から『心』で徹底した方針を求められる8回配本まで、和田なりに本文点検を詳細に行っていたのである。といっても、これらのノートは、後の『心』の作業に比べれば、いみじくも 「猫」〈正誤表〉」とあるように、詳細な正誤表の域を超えたものではなさそうである。原典とはいちいち再校合せず、第一次または第二次の本文を読みながら、疑問な箇所を取り出して、一覧表にしたもののようである。

それが上のノート7冊であり、さらに、小宮が帰国するまでは、安倍能成と森田草平、さらに署名はないが、たぶん安倍、のとやりとりをした文書(便せんで1回数枚)が残っている。以下、そうしたやりとりがどのようなものであったかについても述べるが、その前にノート7冊に触れておきたい。

この7冊の「正誤表」は、すべて、第一次全集のページと行、問題箇所をピックアップして、その下に第三次の修正を主に朱で記した一覧表である。ただし、表の作り方にはいろいろと違いがある。
まず、第1巻 「猫」〈正誤表〉」と第2巻 「短編小説集(1)」、「短編小説集(2)」の3冊は、他と筆跡はあまり違わないのだが、ページと行、共にアラビア数字で書かれ、上下の縦書きは同じだが、ページはこの3冊だけ左から右への順である。
第4巻 「三四郎 それから 門」と第5巻 「彼岸過迄 行人」は、ページは漢数字、行はアラビア数字、表は通常の右から左へである。
配本順では一番最初となる第7巻 「明暗 (第三版)」のみが、ページ、行、共に漢数字で、右から左へ示され、この書き方が後に作成された『心』の3冊に一番近い。

ノートを配本順で説明すると、まず、『明暗』。他のノートと共通だが、第一次全集の読みを示して、1ページ18箇所、全部で11ページ足らず、に朱を入れて第三次、としている。数的にはノートの中で一番小規模だが、後で述べるように、森田との興味深いやりとりの文書が残っている。

次の『猫』は、形式は『明暗』と同じながら、55ページに達するかなり詳細なピックアップ。1,000箇所に近い。ただし前半には、正誤の決定が未記入・空欄のものがかなり存在する。『猫』は当時でも自筆原稿がほとんど散逸していたが、第一次全集編纂においては、初出『ホトゝギス』も参照されず、もっぱら不備の多い初版に拠ったようである。新聞ではなく雑誌なので、参照する気があれば簡単に出来たはずだが、手を抜いた、というよりも初出(その正確さ)への認識があまりなかったのではないか。(第一次全集第1巻の口絵には、例のひげをはやして書斎ですまし座っている漱石の写真と『猫』10回目の自筆原稿、1行24字、24行、の写真1枚あり。)

ではこの「正誤表」の中身はどのような表記になっているのであろうか。以下に、表の最初のページからいくつか示しておきたい。(左欄外に、Page  行 とあり、左から書かれ始める)

1     4             煮           (者に火)
1     7        ものゝ                   ものの
1     9       出(て)會(くは)し   (るび)で くは
2     1        烟草           煙草
8     8              アンドレア・デル・サルト   「・を五号四分」

要するに詳細な「正誤表」といってもよい。

第2巻 「短編小説集(1)」、「短編小説集(2)」の2冊も、これ以降も、表の作り方は大同小異である。ただし、第2巻 「短編小説集(1)」は、別な意味で注目される。収録される『倫敦塔』、『カーライル博物館』、『幻影の盾』、「琴のそら音」、『一夜』、『薤露行』、『趣味の遺伝』、『坊っちやん』まで、標題の上に作品をイメージさせるイラストを手書きして添えている。なかなかのセンスで、この校合者は作品を読んで内容をよく知っていたようである。単調な作業の従事者でありながら、うれしくなる。

和田と森田との当時のやりとりは、次の4件。
(1)和田が岩波B5判便せん3枚で第3回配本の『明暗』について問い合わせ、森田がその中へ添え書きを入れたもの。
(2)と(3)は森田が、「10 20 相馬屋製」(10行20字のB5原稿用紙)で別の回の『明暗』についての和田の問い合わせに答えたもの、同原稿用紙の2枚と1枚の2回。
(4)『坊っちやん』第5節中ほどにある「バツタだらうが、雪駄だらうが、非はおれにある事ぢやない」について森田が和田へ「回答」したもの、上と同じ便せん3枚。


このうち(4)が最も興味深いので、ここからくわしく見てみたい。残念ながら、和田の問い合わせ文は残っていないが、この箇所、原稿では「足踏」となっている。初出『ホトゝギス』と初版では共に「雪踏」と変わり、第一次全集でもこれを採用し「せつた」とルビを振った。平成になって岩波最新の全集では、原稿に従い「足踏」に戻したが、ルビを付けていない。それなら何と読ませるつもりであろうか、全集として少々無責任である。

この箇所の問題を最初に指摘したのは、山下浩『本文の生態学――漱石・鷗外・芥川』(日本エディタースクール出版部、1993、pp. 14-17)だと思っていたが、大正13年に和田が早くも、(上に述べた現存ノートの一覧には含めていないが)、問題提起していたのである。これは和田の優秀さを示す画期的な証拠だが、森田の「回答」は以下のごとく平凡である。

お手紙拝見、
着々進行、暑中御努力の程御礼申し上げます。
さて雪駄の件ですが、
あれはやはり「雪踏」のまゝにして頂きたいと存じます。
「バツタだらうが雪踏だらうが」と云ふ口調がどうしても語呂を思はせる口調で、そこに語呂がないと見るのはやゝ不自然の観があること。
漱石といふ人が「せつた」のつもりで「足踏」と書く位の間違ひは平気でする人であつたこと。
漾虚集は生前出たもので、先生自身の校正ではないにしても、先生に届く便もあつた時節で、先生の意志が加はつてゐると見做していい理由あること。
それからあの辺の文句は有名なので、生前先生自身の前で話題にも上り、吾々は始終「バツタだらうが雪駄だらうが」とよんで、訂正された記憶なきこと。
前の全集校正の時も問題にしたやうに思ひますが、異議なく雪駄に決したこと。
これ等の理由に依つて、やはり雪踏を取りたいと思ひます。
右御回答まで。
その後、口繪の新しいのが出来ましたら何卒春さんにでも云つて送らせて下さいまし。
九月十日
森田
和田様


ちなみに森田は、その『文章道と漱石先生』(大正8年、162ページ)においてこの箇所を引用する際、「雪駄」としている。

和田と森田のその他のやりとり、(1)(2)(3)については、回を改めて連載第5回で述べることにする。