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そういうわけで、この連載では、まずは、大正13年版(第三次)全集について、相当な回数にわたって、あれやこれやの現存資料を駆使してみていくことになる。昭和3年版と昭和10年版については、かなり先のことになりそうなので、ご承知おきいただきたい。それでは、予備知識を少々。

『漱石全集物語』で矢口進也さんが書かれている通り、第一次漱石全集は、漱石がなくなった翌年の大正6年12月9日から刊行され始めたが、完結は予定より遅れて、大正8年11月25日となった。しかし、断簡零墨までを載せるというこの企画は、文字通り一からのスタートであって、仕事の遅い私などから見ると、遅いどころか、おそるべき早さであった。なお配本順は、第2巻「短篇小説集」が第1巻『猫』を先行したが、外箱に配本順が印刷されるのは第3回配本(第3巻『虞美人艸』『坑夫』)からである。その後の配本順は、

4回 6巻『心』『道草』
5回 4巻『三四郎』『それから』『門』
6回 5巻『彼岸過迄』『行人』
7回 9巻『小品』『評論』『雑篇』
8回 7巻『明暗』
9回 10巻『初期の文章』『詩歌俳句』
10回 8巻『文學論』『文學評論』
11回 11巻『日記』『断片』
12回 12巻『書簡集』
13回 13巻『續書簡集』
14回 14巻 『別冊』

となる。この第一次全集完結直後の8年12月に第2次全集を予約募集、これは同じ紙型をつかった今日でいう重版であるので、1年で完結した。

それから3年後。大正12(1923)年9月1日、関東大震災によって、岩波書店はその財産のほとんどを失うことになるが、この間の状況は矢口さんが大事なポイントを押さえてくださっている。ともかく、岩波茂雄らがえらいのは、北海道の一読者から、岩波の再出発の励ましとして、漱石全集一揃いが送られて来たというし、これをそのまま印刷所へ送り、後は適当に補遺でも付けておけば、急場をしのぐことも出来たのだが(現代の出版社なら平気でそうするだろう)、にもかかわらず、大正13年の第三次全集はそうはしていないのである。ひじょうに良心的である。岩波が陣頭指揮にあたって、総力戦で、改訂・増補に当たったようだが、店員の和田勇らが成長して校正を専門に担当できるようになり、小宮豊隆も、途中から森田草平らに代わって編集・校訂の中心に躍り出、その結果、全14巻の収録作品構成は同じながら、増補だけでなく中身の本文の見直しもそうとう行われている。

大震災時、小宮は留学中であった。出発は大正12年3月。帰国は震災から1年後の大正13年9月のようであるが、留学中も連絡を取り合っていたのであろう、すでに第三次全集の出版・配本は始まっていたが、同全集の配本順が第一次とはひじょうに違っている。これには、矢口さんのご指摘、第一次で問題のあった巻を後回しにして手を入れたいとする小宮の意向があったかもしれない、というのはそれなりに根拠があると思われる。

第三次の配本順と配本日は

1回   10巻  13.6.5
2回    11巻     13.7.5
3回     7巻     13.8.5
4回      1巻     13.9.5
5回     2巻     13.10.5
6回     4巻     13.11.5
7回      5巻     13.12.5
8回     6巻     14.1.5
9回     3巻     14.2.5
10回   8巻     14.3.5
11回   9巻     14.4.5
12回  12巻     14.5.5
13回  13巻     14.6.5
14回  14巻     14.7.5

15回  補遺   14.11.5  〈大正六年版と八年版の補遺〉
 
となっており、特に6巻が8回、3巻が9回となっているのが注目される。

この第三次全集の本文関係の現存資料で、とりわけ注目されるのは、主に『心』に関する精緻な本文異同表と和田・小宮間での意見交換を記録した大学ノート(160 x 200 ミリ)3冊である。

まず、1冊は、同じ巻の『道草』とあわせて細部までの異同を網羅的に記録した異同表。表は、上から第一次のページと行、第三次のページと行を示し、その次に原稿、單行本(初版)、正誤表(切り抜き)、全集(第一次の本文))、採用(小宮の意見で第三次の本文とする)の欄がある。正誤表(切り抜き)の欄は空欄。『道草』には原稿が参照されていないので、その部分は空欄である。この異同表は後日写真でお目にかけたい。(但し、この表には、以下の和田と小宮とのやりとりにもあるとおり、原稿と單行本(初版)の間に位置する朝日新聞掲載の「初出」はない。正誤表(切り抜き)とあるのは、空欄だが、この初出のことだろう。新聞の復刻版等が容易に入手できる現在と違って、10年前の新聞は、図書館へ行くか、切り抜きでも所持しないかぎり、なかなか参照できなかったということ。)
                                                   
2冊は、「中 両親と私」の10回(46回)までであるが、1冊の主要な異動をピックアップした一覧表である。

3冊は、2冊をさらに厳選し、問題箇所に対する校正者(和田勇と思われる)の意見を添え、小宮に採用・不採用を求めたもの。この冊子は『心』以外に『道草』、『虞美人艸』、『文學論』、『文學評論』までに及ぶが、小宮は、質問に応えて詳細な書き込みをしているが、鉛筆書きで判読のむつかしい箇所が少なくない。これは校正者和田と校訂者小宮を深く知る上で貴重な手がかりになりそうである。

この回では、とりあえず和田と小宮のやりとりで興味深いものをいくつか選んで、ノートの記入順とは関係なく示したい。

(1)まず、和田が小宮に念押しして問い合わせた箇所の一つで、『心』34回の後半、自筆原稿に存在する、次の行の「そら」に関してである。

「さう極まつた譯でもないわ。けれども男の方は何うしても、そら年が上でせう」

この「そら」、初版にはなく、全集は初版に従っている。小宮は、和田の問いに対して、「初版どほり」としている。これに対して、和田は、(12月1日付けで)再度問い合わせ、以下のように添え書きしている。

(此そらは先日一度伺ひましたが、私はそらがあった方がいい様に思ひます。初(丸印あり)の遺漏とは御認めになりませんか。初(丸印)の當時の先生の御直しと御認めになってトルことになさりましたのですか。)

これに対して小宮は、まず和田のメモの上欄外へ、

僕も「そら」を活かしたい氣もするのですが、然し「そら」は要するにあまりに理由がなさすぎる氣がする上に「そら」が這入るとあんまり奥さんがあまく(奥さんの言葉は一体に甘いけれども、その程度が「そら」の這入るために余計にあまくなる、甘くなりすぎる)且若くなる傾向があるやうにも思はれるから、夫で先生がとつたのぢやないかと想像したのです。「そら」が這入ると宗近さんの妹の會話になるやうな氣がしやしませんか。

続いて、ノートの中へ書き込む。

もつとも再考すると、「そら年」とづづいてゐて、新聞の植字だか校正だかが田舎もので「そら年」と言ものがあると思ひ、それでは何の事だか意味をなさないから「そら」を削つて了つて唯「年」と書いた。夫が切抜の時も、経つて初版の時も、そのままに通用したのだと解釋すれば、遺漏と解釋出來ない事とない。是は一応新聞社に人をやつて此時の新聞を見せて貰つて、新聞に落ちてゐたら復活させる事にしようぢやありませんか。是はたしか大正三年の四月頃から掲載されたものだから、新聞社か上野の図書館かに行けば、割に面倒なく見せて貰へる事と思ひます。

この後へ、和田の署名入りで、

右は上野図書館に人を出して取調(和田)

と書きながら、その後消している。そして、和田は、翌日、12月2日付けで、改めて「そら年が」を取り上げて、次のように書いている。

上野図書館で調べました処、新聞にはそらが入つて居ないことを発見いたしました。

これに小宮は、

調べてよござんしたね。ありがとう。

(注:なお、ここの「そら」の脱落について私見を述べておく。これは原稿にありながら、新聞紙上で脱落したものであるが、紙面をよく見ると、組み版の都合であった可能性が高い。つまり、「そら」を取ると、この会話がぎりぎり2行で収まるが、原稿通りにすると不細工な3行目が出来てしまうのである。このくらいの改竄は、当時の植字職人、平気でやった。)

(2)次は、ノートの後半だが、第8巻の『文學論』に関して、和田が、第二次までの重大な脱落、第四編第二章「投入語法」中の中頃の段落冒頭の2文がそっくり脱落、を発見したことを記しておきたい。
連載第11回にあるとおり、大正14年早々のことである。
和田はこの2文を原稿用紙に書き、添付している。以下の部分である。

知的材料は無論、超自然的材料すら他の庇護によりて始めて活動する事斯の如し。而して其庇護の任にあたる投出語法は既に述べたるが故に之を反復せず、投出語法と並立して存在するべき投入語法を説くが此章の目的なりとす。(こゝに余が)

和田が、「の墨書の一文が赤インキで入ってゐます。この一文は全、再の何れの部分にも見当たらず、恐らくは遺脱だるべし。」

と書き添えたのに対して小宮は、ノートの上部に、

是はどうか入れて下さい。大変な発見でした。

と記している。

(3)再び『心』にかえって、原稿にある「チョコレー」(20回の後半)(第一次全集では、59ページ6行)。初版でも参照されていない新聞でも原稿通りなのだが、全集では「チョコレート」と直されている。

これに対して小宮は、初版採用としている。ただし、ノートの上に次のように書いている。

是はトをいれてもいいと思ひますが、もし訊いて見る機會があつたら西洋人に(英國人に)此発音をきいて見て下さい。アクセントが前の方にあるならチョコレーとのみきこえてトを書かないのかもしれないから。先生はよくそうした音だけでのかき方をする人だつたから。

(4)次に、原稿で「私々」となっている箇所。10回前半の一文。(注: 第一次全集の28頁14行)

私々は最も幸福に生まれた人間の一對であるべき筈です

ここは、新聞では、「私に(は)」となっているが、初版では「私達」に改められた。小宮にコメントはないが、興味深いことに、ここで小宮はいったん、採用欄に「私達」と書きながら、これを真っ黒に消して、原(のまま)「私々」と直した。しかしここ、最新の岩波全集までが初版に従っているが、漱石流の用字を念頭におけば、原稿通りにして、「わたしたち」とでもルビをふるのが妥当であろう。



(この続きは、連載第8回へ掲載します。)