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『バガボンド』研究
――マンガ・メディアの特性について――
ID6 200200532 第二学群比較文化学類 宗内佐代子
 
 井上雄彦著『バガボンド』は吉川英治著の小説『宮本武蔵』を原作としたマンガである。雑誌『モーニング』に連載されていて、手塚治虫文化賞なども受賞している大作だ。本レポートでは、『バガボンド1』の一話〜七話と『宮本武蔵(一)』の「鈴」「毒茸」「おとし櫛」を分析の範囲とする。武蔵が関ヶ原の戦いで敗れ、宮本村に帰る前までのストーリーを一区切りとした。両者を比較し、『宮本武蔵』をマンガ化するにあたってどのように変化をつけたかを分析し、マンガ・メディアの特性について考えてみたい。
 
 本論に入る前に、マンガの話の展開を以下に記しておきたい。本論に出てくる1)等の数字は、以下の表の番号である。
 
1) 激戦後の関ヶ原を洗い流すかのような雨の中、武蔵は動く事ができずに横たわっている。
2) 武蔵の上を人馬の横列が通り過ぎてゆく。
3) 武蔵と又八の再会。武蔵が野武士の振りをして又八を驚かす。
4) 武蔵と、ひどい下痢の又八が2人で里を目指して歩いている。
5) 荒野の一角で休憩すし、故郷を思う。又八が弱音を吐く。
6) 武蔵が馬の気配に気づく。
7) 又八の背後に野武士が現れる。驚いた又八は武蔵を呼びに行く。
8) 武蔵が野武士と戦っている。三人とも倒してしまう。
9) 二入で自分の名を叫ぶ。又八がくずれて武蔵にもたれかかる。
10) 月明かりの中、少女が鈴の音を鳴らしながら草むらにいる。
11) 戦場跡。武蔵が一人で道を探している。武者の死体を見て吐いてしまう。
12) 武蔵の枕もとに少女が立っている。
13) 又八と武蔵が朝、民家で目覚める。
14) 夕化粧をするお甲。寝ている武蔵に声をかける。
15) みんなで晩酌。又八も武蔵もすっかりよくなっている。お甲が「朱実のムコにでもなってずっとここにいたら?」と2人をからかう。
16) 朱実と武蔵がきのこ狩りをしている。朱実が武蔵の毒茸をぽいぽい捨てる。
17) 武蔵が朱実に質問する。年齢の事、出会った晩のことを尋ねる。
18) 又八が台所で武具を見つける。お甲に見つかってしまう。
19) 朱実が「泥棒だ」と告げる。
20) お甲が又八に自分の稼業を告げる。
21) 辻風典馬が現れる。朱実が石を投げるのを武蔵が止める。
22) 典馬が朱実に口脅しをかける。
23) 典馬の襲撃に向けて盗んだ武具を天井に隠す。
24) 武蔵が木刀を見つけ、お甲にもらう。又八も何かねだる。
25) 晩酌。お甲が武蔵にからむ。それを又八と朱実が気にする。武蔵が余って眠ってしまう。
26) 武蔵の夢。母の行方を尋ねるが、厳しい父親は相手にしない。
27) お甲が炊け像の部屋に忍び込み、せまる。武蔵がたじろぐ。
28) 辻風組が襲撃してくる。
29) お甲は「よくも恥をかかしたね…」と怒る。
30) お甲が土間で、辻風組に背を向けて座っている。典馬がお甲にお酌を要求する。
31) お甲が断ると、典馬が子分に命令する。天井が突かれ、武具が落ちる。
32) 朱実が野武士たちに見つかる。
33) 典馬と戸に隠れた武蔵・又八のにらみ合い。
34) 武蔵と又八が攻撃をしようとするが、はねのけられる。
35) 武蔵の反撃に典馬が戦慄を覚える。
36) 又八が他の野武士達と戦っている。
37) 典馬が武蔵に怯え、逃げ出す。武蔵がひたすら追いかける。
38) 武蔵が典馬を見つけて殴り殺す。髪がほどける。
39) 戦いの後、又八と武蔵が出会い、地で遊ぶように喜ぶ
40) 又八と武蔵がお甲の家へ帰る。お甲は他国へ行くという。辻風黄平のことを聞く。
41) その夜、又八が眠れずに戦いを思い返している。
42) 又八、お甲を夜這う。お甲に「どっち?」といわれ、武蔵の名をいってしまう。
43) 武蔵、又八、朱実が川で洗濯をしている。又八が宮本村へ帰ろうと言い出す。
44) 典馬の子分達が復讐に、山の中を走ってくる。
45) 1コマ。お甲が寒気を感じている。
46) 武蔵は流浪の望みだと話す。
47) 辻風組の復讐に気づく。
48) 朱実を置いて、二人は行ってしまう。さびしそうな朱実。
49) 又八も走るが武蔵の速さに追いつけない。刀を忘れた事に気づいて立ち止まるが、武蔵は辻風組のいる家の中へ入っていってしまう。
50) 武蔵が家の中で典馬の子分たちと戦い始める。
51) 又八が中に入れず、躊躇している。
52) 又八のところへ、逃げ延びたお甲がやってくる。震えたお甲が、又八に抱きつく。
53) 武蔵が敵をどんどん斬っていく。又八、お甲を呼ぶが返事がない。
54) 一コマ。草むらにいる又八とお甲。
55) 戦いの後、一人取り残された武蔵。おとし櫛を見つける。
 
 
 
 
 
 
 
 
第一章 キャラクターの強化
 『宮本武蔵』には主人公武蔵について多く描かれているが、『バガボンド』では、他の登場人物について、小説にもみられない部分まで詳細に描かれている。それを一つの特性として考えていきたい。
 
1.強化の技術
 キャラクター強化の工夫として以下のようなことがあげられる。
 まず、詳細な説明の省略だ。例えば、1)、2)の関ヶ原の戦場跡、武蔵の上を人馬の横列が通って行くところが当てはまる。ここで小説では関ヶ原の戦いについて日時や具体的な武将名をあげた説明が加えられるが、マンガには「関ヶ原は終わった 俺は破れた―――」の二言に集約される。絵とこの心中セリフから、関ヶ原の戦いが負けに終わったことはわかるが、具体的なことは一切わからない。これは、小説が歴史的背景について、つまり武蔵たちと同時代に生きた人々まで広範囲に描いているのに対し、マンガでは登場人物にクローズアップして、より深く、象徴的に彼らの心情を描こうとしているからではないだろうか。つまり、マンガでは人物に重点がおかれ、焦点化されているということである。
 次に、自由な視点による、登場人物の心情への同化がある。小説は主に武蔵の視点で書かれているため、他の人物については武蔵のいる場で見える範囲の事が書かれている。しかしマンガではキャラクターそれぞれの立場を描いている。例えば、41)42)のシーンはマンガで新しく書き込まれた部分である。さらにマンガでは、心中セリフが武蔵だけでなく、すべてのキャラクターに見られる。つまり、その場面場面でキャラクターの心情に入り込み、言葉で表現しているのだ。これは文章での全知視点ともまた違っている。例えば二人以上のやりとりで、絵と同時に心のセリフも描き、笑いをとる、ということもできるのだ。このようにマンガでは視点が固定されず、各人物の諸側面を描いている。
 最後に、象徴的なセリフがあげられる。後述するが、例えば武蔵が敵と戦う時の「俺を殺す気なら―殺してやる」というセリフは、武蔵の獣のような殺意を象徴する。小説の地の文で“獣のようだ”と書いたり、マンガの絵だけで表現したりするよりも、本人から激白する事でよりいっそうキャラクターのおもいが強まる。また、典馬がやってきた時のお甲の「反吐がでる その面」というセリフにもお甲の気の強さが表れている。マンガでは絵によって雑多な説明をはぶき、そこにある雰囲気をも表現して、さらに短く印象的な言葉を効果的に使うことでキャラクターの性質をいっそう強く表現している。
 
2.各キャラクターについて
 では、それぞれのキャラクターについて、どこが強調されているかを述べていきたい。
 
武蔵 先述したが、武蔵においては獣のような獰猛さが特に強調されている。小説でも「獣」という言葉を使って強調されているのだが、マンガでは小説のことば以上に残虐な戦いをリアルに描いたり、戦いの場面を増やしたりしている。また「俺を殺す気なら―殺してやる」というセリフは後にも繰り返され、武蔵の殺意の象徴となっている。『宮元武蔵』でも『バガボンド』でも、武蔵の獣から人間への成長は物語の主題ともいえる大きなテーマである。武蔵は獣のように人を殺し続けるが、帰った先の宮本村で沢庵に出会い、生命の尊さ、己の罪の重さ、そして自分の殺意が弱さによる他人への恐怖や懐疑心に端を発するものであったと悟る。一連のストーリーは、関ヶ原での強い挫折感に始まり、暗い戦いを続ける事になる。主人公武蔵の獣性の強調は、物語の根幹を浮き彫りにしたといえる。
 
又八 強さを追求する武蔵に対し、又八は人間の弱さの部分を担っているキャラクターだともいえるだろう。顔立ちにしても、武蔵に比べて気の抜けた表情である。又八の、マンガの中で新たに全面的に打ち出された部分、それは武蔵への引け目である。始まりは7)8)9)の関ヶ原での野武士との戦いにあるだろう。又八は野武士に気づくとよろよろと逃げ出すが、武蔵は荒々しく戦っている。ここで2人の対比が決定的になるが、又八が普通の人間の反応を示したに過ぎなく、むしろ武蔵が異様である。次に24)25)に見られる、お甲とのからみである。お甲は武蔵に目をかけているが、又八はそれがおもしろくない。ここは小説にも描かれているし、この時点ではまだいやな気分がする程度に受け取れる。そして42)でお甲を夜這う時、又八はお甲の誘惑に耐え切れなかった弱さがあらわになる。そしてお甲に「どっち?」と訊かれた時、「武蔵だ」と答えてしまう。ここで武蔵に対する引け目の気持ちを自覚し始める。そして49)〜で果敢に野武士のいる家の中へ入っていく武蔵に追いつけず中としているところに、武蔵への引け目を感じている事が実際の距離としてはっきりする。小説では武蔵が最後の晩酌の翌朝に起きると、又八、お甲、朱実がいなくて、又八が誘惑に負けてしまった腑抜けのように描かれる。しかしマンガでは子分達の復讐というエピソードを加え、武蔵への引け目から歪んでしまった、又八の複雑な心情を描き出している。
 
朱実 小説では可憐な少女として、割と普通に書かれている朱実だが、マンガでは無表情な中に少女の心を持っている、謎めいたキャラクターになっている。それは16)のきのこ狩りのシーンによく表れている。小説では武蔵と採ったきのこの量競争し、飼ったことに喜び跳ねているような少女となっているが、マンガではいきなり武蔵の毒茸を捨てだし、「殺す気か 武蔵」だ。また21)の典馬の登場シーンでは、怯えているだけの小説での反応に対し、典馬に意志をぶつけるなど、母親譲りの気の強さを持っている。また15)でお甲がからかった時、朱実がじっと座っている様子に又八がドキッとしたり、典馬の襲撃時に野武士達に犯されそうになったり、女の色気の芽生え、のようなものも併せ持つ少女として描かれている。
 
お甲 小説もマンガでもお色気担当のお甲であるが、18)20)や42)、52)54)など、特に又八とのシーンが加わることでさらに強調されている。また先述した象徴的セリフなど、気の強さも打ち出されているといえる。
 
第二章 生身の人間を描く
 『バガボンド』は美しさやかっこよさばかりを強調しているエンターテイメントではなく、逆に人間の痛みや弱さ、醜さなどをリアルに書き込んでいると思う。こうした生身の人間の姿をどのように描いているか、分析したい。
 
1.戦闘
 戦いの場面はリアルで血みどろで、目を覆いたくなるほど痛々しい。しかも武蔵の獣性のエスカレートに合わせるように、攻撃方法も残虐になっている。7)8)の関ヶ原で野武士との戦いでは、頭突き、大きな石を頭にぶつける、棒を首に突き刺す、などがある。典馬との戦いでは35)で武蔵が典馬の手の肉を食いちぎり、38)では武蔵が典馬の頭上に殴りかかった2ページ1コマの場面があってから、1ページ1コマで典馬の脳天を木刀でおもいっきり打ち、それから何度もなぐりつけて血みどろの木刀が現れる。そして53)の子分達の復讐では刀を振るい、敵の首をガッと切るシーンもある。
 このようにリアルな戦闘シーンが多々あるが、これは決して攻撃側のかっこよさを表現したものではない。この痛々しさは打たれる側の痛みを描いたからだと思う。武蔵に殺される敵の痛々しい表情が血と共に細かく描かれている。武蔵に反撃されたときの典馬の恐怖の表情、そして脳天を打たれたときのつぶれた顔、さらに象徴的なのは8)で打たれる瞬間、涙を流した野武士の顔がクローズアップされるところだ。
 また武蔵自身もその異常性に対して反応を示している。11)で武蔵は野武士の死体を見て吐いてしまう。これは下り腹などではない。獣のような武蔵と、人間でありたいと願う武蔵の内面の葛藤がすでにここから始まっているのだ。
 これらのリアルさは生身の人間を描く以上に、武蔵の罪の強調であると思う。スマートにかっこよく命を落とさせることなく、敵の痛みを全面的に描くことで、生命の尊さを訴えているのだと思う。
 
2.性と欲望
 又八とお甲のシーンなど、ラブシーンをもいえぬリアルな性表現の場面がいくつかある。そうのような人間の欲望の行為をリアルに描いたことも、生身の人間の姿といえるだろう。
 またここは絵か文字かで表現の仕方に大きな違いが生まれる場面でもある。27)でお甲が武蔵にせまった時、マンガでは妖しげなキスシーンがある。小説ではひたすら会話や「骨が、歯の根が、自分の体じゅうが、がくがくと鳴るように、武蔵は思えた。」といった地の文のみで語られ、具体的なことは一切ない。ここは読者の想像にまかせるということだろうか。ところがマンガの場合、絵にしなくてはいけないので隠すことが出来ない。リアルな表現である反面、マンガには絵にする義務のようなものもあるといえるだろう。ここがマンガのわずらわしさでもあるのかもしれない。
 また、性に対して人間の醜い部分も描いている。典馬の子分達が復讐する時、44)で前進中の野武士達の様子が描かれるのだが、「ククク……でも親分がいなくなって 遠慮なく あのお甲を犯せるぜ!」とある。欲望のかたまりであり、いかにも悪役のセリフである。悪役の醜さを強調する刺激的表現とも思われるが、なぜこうした表現なのか。やはり人間の持つ欲望を描こうとしたからではないだろうか。
 このように、『バガボンド』では生身の人間の性的な欲望もリアルに描いている。
 
第三章 マンガだからできること
1.象徴表現の図画化
 小説等の文章の中でも、象徴的な小物はよく使われる。象徴表現はマンガ特有とはいえないがそれが絵になるにあたって、背景にとけ込んだり、現実にはありえないものとなって現れたりしている。
 その例として月がある。8)の野武士との戦闘シーンでは、野武士達をにらむ武蔵、野武士の恐怖の目のコマに続き、1ページの2/5ほどのコマに大きな月が描かれ、次に砕けた石の下敷きになった野武士のコマがある。また「この新免武蔵様がっ」と名乗る武蔵の後ろにもつきがある。これは夜を表現しているだけでなく、武蔵の野性的獰猛さを象徴していると考えられる。
 また、10)12)で正体不明の少女が現れるが、背景には現実ではありえないほどの大きな月がある。月明かりに影となった少女の姿は、竹取物語の天女を思わせるような、不思議な雰囲気をかもしだす。また、りりんと鈴を鳴らして目だけが光り、小動物をも思わせる。これらのようにつきは人間の動物性の象徴として描かれたようだ。
 さらにつきは時の流れを示すものとしても使われている。関ヶ原の時には満月だったのが、お甲の家で生活するうちに少し欠け、やがて三日月となる。さりげない細工がなされているといえるだろう。
 他には武蔵の髪がある。武蔵はずっと髪の毛を縛っているのだが、典馬との戦いに勝った後、すっとほどけてしまう。長い髪をもさもさとさせる姿は野人そのものだ。その後また縛っているが、野武士の襲撃の後もいつのまにかほどけている。それ以後宮本村の山に入り獣のような生活をしている間、髪はずっとそのままである。武蔵の髪の毛もその獰猛さを象徴している。
 このように小道具を描きこむことで象徴性を出している。絵にするとうっかり見逃してしまいそうなほどさりげないものもある。このさりげなさは絵だからこそできることであろう。
 
2.ギャグの効果
 リアルで重々しい話の最中に、ふっと笑えるコマが挟み込まれている。このような場面ではどのように笑わせ、どのような効果があるのだろうか。
 方法といてコマとオノマトペを巧みに組み合わせた表現がある。5)で「もう歩けねぇ」と又八が弱音を言い出したとき、「この数日、食ったのはそこらへんの草だけ」といって又八が草むらで用を足す。右下に小さなコマが二つあり、上のコマは無音、下のコマは「ブリッ ビシャビシャー ビチッ」というオノマトペが入る。読者は“汚い”と思いながらもふっと笑えてしまう。また51)で又八が躊躇する様子もおかしい。「よし!! 三数えたら行こう!」といって「一」「二ィ」と数え、次のページをめくると「三っ」で「ピキィン」と固まり、(くっ……)という心中セリフが入る。そのあと「……又さん
!」というお甲の呼び声が入り、又八ははっとする。又八の情けなさがいかにもよく出ていて笑えてしまう。
 これらの笑いはギャグマンガのように大声を出して笑える性質のものではない。しかし重い話の中で軽い笑いを挟み、話が重くなりすぎるのを回避している。マンガの世界にあまりに入り込みすぎると読者も疲れてしまう。あ、軽い部分を挟み込むことで、読者にとって親しみやすいものにしているのだろう。
 
3.コマ使い
 ギャグとは違ったコマ使いの工夫も見られる。例えば、コマの大きさがある。1ページ一コマ等の大きなコマがあるが、大きなコマにたくさんの絵が描き込まれているとかなりの迫力が出る。キャラクターの初登場シーンがたいてい1ページ一コマになっているのもこのためだろう。一方小さなコマもうまく使われている。例えば先に述べた象徴的小道具は小さなコマでふと現れることが多い。木刀や髪ひもが解ける絵も、立っている武蔵の両脇に小さなコマで描かれている。
 また、コマ、ページ単位での短い場面の挿入もよく使われている。例えば典馬の子分が復讐に来た時〔44〕〜55〕〕には、武蔵たちが洗濯をしている川→野武士→お甲→野武士→武蔵・又八→朱実→又八→武蔵→又八→武蔵→又八→武蔵と、1ページや1コマ単位で、別々の場所にいる人々が切り替わって挟みこまれる。この切り替わりの速さが、マンガのスピード感を生む一つの要因であるかもしれない。こうした急激な切り替えは文字だけのメディアでは難しいだろう。
 マンガは映画のようにある枠で切り取られた世界で構成されるメディアである。小説とは違い、様々な場面を切り貼りするようにつなげることが可能になる。さらにマンガのコマは形も大きさも自由だ。音声は入らないがコマをうまく使うことで幅広い表現が可能になっている。
 
 
 
結論
 以上見てきたように『バガボンド』ではキャラクターの個性が強化され、リアルな表現によって生身の人間が持つ闇の部分も描き出されていた。さらにマンガかされるにあたり、絵やコマの工夫で象徴性や笑い、スピード感を生み出してきた。
 ここでマンガというメディアについて考えてみたい。文字で構成される文章は第一章で書いたように、ことばによって説明するなど、状況を広範囲に広げやすい。読者はことばから連想されるものをつなぎ合わせて文章の世界を読み取ってゆく。一方マンガはコマによって切り取られた世界で構成される。すべて視覚に頼るので、切り取った部分は何もかも描かなければならない。だが動画とも違い、静止画像なのでコマとコマの間の空白は読者自身が読み取らなければならない。
 そこでマンガが切り取ったものは人間であった。たった一人の主人公だけでなく、すべてのキャラクターの一面を切り取っていた。このことからマンガは人間により近づいて描かれるメディアだといえないだろうか。雑多な説明は抜きにして人間にスポットを当て、感情を抉り出すようにかつ強調して印象深くしている。だから読者の心にも自ずと深く刻み込まれてしまうのではないだろうか。
 もちろん文字だけの世界も人の心に深く刻み付けるものがある。ただことばだけの世界は実体のないものであり、“ことば”のカテゴリーの中だけで作られる世界である。マンガの情報も実体のないものではあるが、絵がある分、ことばを超えた何かをも伝えているのではないか。それは“ことば”を超えた意味を持つ世界である。その意味が読者の心に何らかのメッセージを伝えているのかもしれない。またマンガの世界は実体がないとしても、文字だけよりも私たちの現実に近いといえるのではないか。だからこそより人間に近づく方向がとられる。リアルだと感じるのはより現実に近いからだ。文字だけでリアルさを出すことももちろんできる。しかしえにすることにより、生活に近い感覚があるのではないだろうか。
 マンガというメディアはより私達の現実に近い形で物語を伝えるメディアである。そして人間の生身の姿を描き出す。だからこそ、ストーリーが非現実的であるにも関わらず、私たちはマンガを身近に感じ、惹かれていくのではないだろうか。
 
 
参考文献
井上雄彦『バガボンド1』講談社、1999年。
吉川英治『吉川英治文庫48 宮本武蔵』講談社、1975年。