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「特集:イギリス書物革命」(『英語青年』2002年5月号)を読んで
 
 5月号の大特集を読む機会がやっとできた。「書物革命」とあり古い写本の写真が表紙を飾っていたのでGutenberg か Caxton の話かと思っていたら、書物史の特集であった。Zwicker氏の英文を最初に読んだ。かつての R. Darnton や E.L. Eisenstein の本が、すぐれて独創的であった反面、英米Bibliographyへの理解が充分ではなかったのに対し、この論文ではそのあたりが意識されていて、英米の書物史も成熟に向いつつあることを感じさせる。他方、日本語の論文の方にはprofessionalな筆が感じられない。
 「書物史(読書史を含む)」といっても、英米ではBibliographyの一部門とみなすべきで、フランスからの影響はあるが、W.W. Greg当時からの Historical Bibliography の発展形である。20年前に突然生まれた「革命」ではない。Zwicker氏らが今日活躍できるのも当時からの研究(文献)の蓄積があっての話である。英国のこの方面の研究は、歴史学者が主に関わるフランスとは違い、英文学関係者が多く関わってきたので、新刊の『ケンブリッジ版英国書物史』が示すように、'more literary and bibliographical than conventionally historical' となる。ややもすると抽象に流れやすいフランス流に対して、原典一点一点の物理的細部までを精査するのが手堅い英米流である。そのためには研究者は総合的なBibliographyの訓練が必要となる。
 しかし本特集の執筆者の多くは、まだまだそうしたレベルには達していないようだ。記述に一貫性がなかったり、セカンダリーな臭いをさせたり、日本語・英語の使い方共に難があったりする。Zwicker氏らを「黄金コンビ」などとたてまつる前に、偉大な先達Gregらへ敬意を表し、根本から学び直す必要がありそうだ。
 掲載論文すべてをいちいち論評するスペースはないので選択的になるが、それでも第3,第4部の各論からは懸命に書いている熱意が伝わってくる。第2部の書評では斎藤美和氏のものがよく書けているが、他と同様に記述の基礎に難があり、以下に触れるような「テクスト」の語の曖昧な使い方(例えば「テクストの校合」は「本文」とすべし)があったり、結末では「書誌学」(Bibliography)とあるべきところを時代錯誤的に「文献学」としたりする。
 第1部「概観」のとりわけ圓月勝博氏の論は、上に述べたような基礎的訓練と常識を欠く結果、leading article として不相応な内容になっているのが残念である。問題は多々あるが、細部では、脚注を見ると、1) には「17世紀イギリス出版文化研究の三種の神器」というのがある。誰がここの3書を勝手にそう決めたのであろう。4)の「世代の断絶」云々は氏の視野の狭さの方を「端的」に示す。5) のような時間差のある登録は、版権を前もって確保しておくためなど、その他の事情でも起こりうる。複雑な分野なのでGregなどをひもといて学びなおしてほしい。本文中には、「初期近代においては、印刷作業から始めて、…までを単独の業者が行う」とか、「印刷出版販売業者と作者の区分もあってないに等しい」といった大ざっぱな言い方がいろいろと出てくる。
 抜本的な問題の一つに、2ページ目、「本(書物)は誰のものなのか」の論じ方がある。その答えとして氏は(1)から(4)までの4点をあげ、「書物の帰属をめぐる議論は、…本来なら重層的なものでなければならない」以下云々、とくる。しかし氏は、自明なことながら、区別されねばならない物理的存在 'physical book' としての「本(書物)」と「無形で抽象的」な「作品」(Work)の意味の「本」とをいっしょくたにしている(「作者」と「編者」の関係については、本誌3月号の拙論を参照されたい)。ついでながら、日本語で「本」といえばこのどちらの意味でも使えるが、「書物」となれば前者の物理的存在の方にかぎってはどうか。結末の「書物の概念を書き換えれば、歴史も書き換えられていく」に至るまで説得力を欠き続ける。
 しかしこのあたり、圓月氏だけを問題にするのは気の毒で、どうやら氾濫している「テクスト」の語の曖昧な使い方とも関係がありそうだ。古くはG. Hartman: Deconstruction の序文中の 'the great texts of our culture' あたりからの問題で、上の「本」の場合と同様な2種の違った意味が断りもなくごっちゃにされ、せっかくの言説がひんぱんに不明瞭となる。近年の日本語の論文の多くも馬鹿の一つ覚えのように「テクスト、テクスト」と繰り返すようだが、それが従来の「本文」(物理的存在、文書)のことであれば、そのようにはっきりと書くべきで、そうすることによって無用な意味の拡散・曖昧さを避けることができる。立派な日本語を忘れてはならない。Zwicker 氏は、'the material text, the material book, the physical book' といった言い方をして区別している。 
 それにしても、おそらくは山田昭廣氏の業績を筆頭に、国内でも日本語で読めるすぐれた啓蒙的著書や論文が多数存在し、最近も少々細かいが本誌に金子雄司氏のすぐれた連載があった。これらは、英米の書物史を学ぶ場合にも、誤訳が多くて読みにくい翻訳類、ロジェ・シャルチエ『書物の秩序』などに比べてはるかに信頼でき、重要な基礎となるのだが、そのことを圓月氏らはご存じなのであろうか。
 
 書物史といえど、英文学を専攻するものにとっては、やはり文学作品の大作に関わるところの論を読みたい。特集の執筆者らが今後とも書物史に興味を持ち続けたいのであれば、蔵書票がどうだとか、細かいことばかりに終わらないで、大作に関わる「書物史的考察」にも挑んでほしい。それは、机上の勉強だけでは難しいが、Zwicker氏が最初にあげている 'the material book' の考察のような、とりわけ D.F. McKenzie が 'physical presentation of texts as part of the social milieu in which reading takes place' と強調し続けたような観点からの考察である。そうしたアプローチによって大作の新しい読み方がまだまだ発見できるはずである。これに関連した興味深い研究例が身近な日本近代文学研究にもあり、新刊ではないが、紅野謙介『書物の近代――メディアの文学史』(ちくまライブラリー 80)を紹介しておきたい。筆者が刊行中の漱石復刻全集シリーズ(ゆまに書房)もこうした考察の補助的資料と意図されている。