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(芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の)新聞小説(しんぶんしょうせつ)
 
新聞小説とは
 「新聞小説」とは、意味的には「新聞に連載された小説」のことである。しかし雑誌に初掲載された小説を意味する「雑誌小説」に比べてなじみが深いいい方で、そこには特別な含みがあるように思われる。日本近代文学で代表的な新聞小説家は、1907年に『朝日新聞』の専属作家となった夏目漱石であろう。漱石は、「文壇の裏通りも露地も覗いた経験のない、教育ある且尋常なる」(「彼岸過迄に就て」『朝日新聞』1912・1・1)一般読者のために、彼らの期待のあり方をたくみに念頭に入れて、『虞美人草』(1907・6・23〜10・29)以降すべての作品を執筆した。読者としても、毎日、毎日、きのうの余韻に浸りながら本日分を読み、あしたへと期待をつないだわけである。しかしこうした新聞小説における作者と読者の関わり方・コレスポンデンスは、今日流の全集本文を読むだけではなかなか伺い知れない。芥川作品のいっそうの理解のためには、今日の読者も、当時の掲載原紙の物理的形態に迫り、そこに込められた深い意味をさぐる必要があるように思われる。
芥川の主な新聞小説
 漱石を師と仰ぐ芥川は、「狢(むじな)」のような短い作品を『読売新聞』(1917・3・11)に発表することもあったが、本格的な新聞小説としては『大阪毎日新聞』夕刊の「戯作三昧」(1917
・10・20日〜11・4、15回)が最初であった。芥川は、『朝日新聞』のライバルであった同紙と1918年3月に社友契約を結び、翌年4月には社員となった。「出社の義務を負わず、年に何本かの小説を寄せ、他の新聞には執筆しない」という契約内容を見ると、漱石の『朝日新聞』入社を思い起こさせる。社友契約後最初の作品は「地獄変」(1918・5・1〜22、20回)であり、これ以降は「邪宗門」(1918・10・23〜12・13、32回)その他、『東京日日新聞』(朝刊)にもほぼ同時に掲載された(当時の『東京日日新聞』にはまだ夕刊がなく、発行されたのは1923年9月からである)。
 芥川が同紙の社員になってからの第一作は、「路上」(1919・6・30〜8・8、36回)であり、その後の作品には、「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」(1920・3・30〜6・6、45回)、「奇怪な再会」(1921・1・5〜2・2、17回)、「上海遊記」(1921・8・17〜9・12、21回)、「江南遊記」(1922・1・1〜2・13、28回)があるが、芥川の新聞小説の数は意外に少なく、社員になってからも他のメディアへ発表する作品の方が多かったという点で、漱石とはひじょうに違っている。ある書簡の中で、「毎日うんうん云ひながら新聞小説を書いている」と述べているが、執筆に苦労し休載する日が多かったという点でも漱石とはだいぶ差があり、芥川は新聞の執筆形態には向いていなかったのかもしれない。
新聞初出本文の意義
 当時の『大阪毎日新聞』の夕刊は、朝刊と同じく1ページに10段、1行16文字、ルビ付き活字による、総ルビ付きの本文で、芥川の新聞小説は第1面下部に掲載されることが多かった。新聞小説においては、漱石は言うまでもなく芥川においても、新聞掲載の初出の本文がもっと重視されるべきではないであろうか。限られた少数の読者にしか読まれなかった同人誌発表の作品ならともかく、新聞掲載の本文は他のメディアとは比較にならないほど多数の読者を獲得したはずだからである。しかし最新の『芥川龍之介全集』全23巻(岩波書店、1995-98)を含む従来の全集は、新聞小説の本文も他の雑誌掲載の作品と同列に扱い、芥川のその後の改稿の手が入ったという理由だけで後の単行本の方を機械的に底本にしてきた。こうした十把一絡げな編集方針は早急に改め、新聞に掲載された初出本文を、その掲載形態にまで配慮しもっと人目に触れさせる必要がある。
 東京版(芥川の場合は東京日日)と大阪版(芥川の場合は大阪毎日)の両方に掲載された新聞小説においては、漱石の場合もそうであったが、両者間に認められる本文の異同がいつも問題となる。漱石の場合は、初期の数作品を除きほとんどの自筆原稿が東京朝日へ送られ、東京版がまずそこで組まれた。大阪版は、自筆原稿そのものからではなく、東京から送られたゲラ刷りをもとに製作されたと推定される。
 芥川の場合はこれとは逆で、自筆原稿が先に大阪へ送られそこで大阪版が組まれ、東京版は大阪版のゲラ刷りから製作されのではないかと思われる。その場合東京版は大阪版のリプリントということになる。芥川の単行本は、漱石の単行本と同じく東京版を底本にしているようなので、漱石の単行本に比べても自筆原稿からさらに一歩離れた本文ということになり、それだけ多くの問題を抱えることになる。芥川の新聞小説においては、その点からも初出新聞原紙の重要性が高まるのである。(山下浩)
〈参考文献〉
森本修・清水康次『芥川龍之介集 第2巻』(和泉書院、1987・10・10)、高木建夫『新聞小説史 大正篇』(国書刊行会、1976・12・15)、『新聞小説史年表』(国書刊行会、1987・5・30)、山下浩「解題」『漱石新聞小説復刻全集 第11巻』(ゆまに書房、1999・9・24)
 
脚注
『彼岸過迄』の予告文から 「東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上つてゐる。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を新率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる」
東京版と大阪版の本文の異同 芥川と同じ頃に『大阪毎日新聞』夕刊(1919・1・18〜2・19)と『東京日日新聞』(1919・1・19〜2・22)(共に17回掲載)に発表された谷崎潤一郎『母を恋ふる記』の自筆原稿(3回目)が手元にあるが、原稿の1枚目に印刷指定の朱筆と共にブルーのインキで「大阪行」のスタンプが大きく押されている。単純に解釈するとこのスタンプは、東京での組み版が終了後原稿自体を大阪へ送れ、という意味になりそうだが、それにしては大阪版の方が先に発表されており、この点との折り合いはどう付ければいいのであろうか。芥川については残念ながらこの種の原資料が手元にない。
 漱石の作品においては、さまざまな内的・外的証拠を含む書誌学的考察によっても、東京で組版を終えた後自筆原稿が直接大阪へ送られた形跡は(その逆の大阪から東京へも)ない。当時の東京と大阪との通信手段としては、電話や電報もすでに存在したが、漱石作品においてこのような手段はとられなかったと思われる。
 上の〈参考文献〉にも示した高木建夫その他の新聞(小説)の研究や印刷史の研究をいろいろと調べてみたが、東京版と大阪版の本文異同に注目している研究はない。当時の物的証拠は乏しいようなので、おそらくはほとんどの場合内的証拠(Internal Evidence)による精細な書誌学的考察を行うしかないであろうが、本文校訂だけでなく新聞史や日本近代の印刷史をさらに発展させるためにも、この方面からの考察は必須だと思われる。これまでこの方面の研究の多くは、私の見る限りひじょうに概説的・表面的で、英米の多くの印刷史や出版史に見られるような実証的・分析的な考察は皆無である。