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解題(注1)
                                    山下浩
 
(一)モナリザとハムレット――文学作品とはとどんな「形」をしているか?
 
 ある日の授業の一こまです。
「みなさん、モナリザはどこにあるか知っていますか」
 いっせいに手が上がりました。
「はい、ルーブルです」
「ルーブルです」
「ルーブルです」
「そうですね。ではハムレットはいかがでしょうか」
 こんどはなかなか手が上がりません。しばらくして何人かが顔を見合わせるようにして手を上げました。
「先生、大英博物館ですか」
「本屋ですか」
「ハムレットならうちにもあります」
 
 レオナルド・ダ・ビンチのモナリザはたしかにパリのルーブルにあります。他には、あっても複製です。しかしだいぶ前に日本で公開された時には、モナリザは一時的にせよ日本にありました。ルーブルにはありませんでした。
 ではハムレットの方はどうでしょうか。戯曲だ、芝居の台本だ、といった話はさておいて、世界中でたくさんの人たちに読まれ親しまれているシェイクスピアの代表作デンマーク王子ハムレットの悲劇物語とお考えください。案の定いろんな答が出てきました。
 大英博物館(正確には大英図書館)には、世界に二部しかないハムレットの初版本が所蔵されています。とすればこの答えが正しいのでしょうか。次の「本屋」はどうでしょう。「ハムレットならうちにもあります」という答はふざけているのでしょうか。
 モナリザのような絵は、彫刻などもそうですが、実際に目で見ることも手で触れることもできます。絵(Art)とそれを伝える媒体(Artifact)とが同一物であり、そのもの自体が「芸術作品」(Works of Art)といえます。作品自体が、画家・作者の手を経て、今日に伝わっています。その間、最初の姿・形をどれほど変形させ、原型をそこなっているとしても同じ物であることに変わりありません。しかし他方、絵は、火事で燃えたり壊されてしまえばそれまでという面もあります。どれほど精巧な複製をつくっても本物に代わることはできません。モナリザはこの世から永遠になくなってしまいます。
 これに対してハムレットの場合、シェイクスピアが書いた自筆の原稿はとっくの昔になくなっています。しかし誰もハムレットがなくなったとは言いません。当時の初版本や有名なファースト・フォーリオ(一六二三年にロンドンで出版されたシェイククピアの最初の全集で、判型が二折判であるところからこの名前がある)が残っているからでしょうか。それならこれらの初期版本がすべてなくなってしまったらどうでしょう。現代の全集や文庫本は「複製」ということになるのでしょうか。さらにはこうした全集や文庫本までがなくなってしまったら、どうでしょう。
 しかし仮にそういう事態になったとしても、ハムレットは、私たちがその有名な台詞(せりふ)や物語の筋だけでもおぼえていれば、モナリザがなくなるようにはなくなりそうにありません。
 手元にある辞書を見てみると、「文学」とは「(literature)情緒・思想を想像の力を借り、言語または文字によって表現した芸術作品」とありました。
 つまり文学作品とは、絵や彫刻がその存在をしかと確認できる「固体」であるのに対して、目で見ることも触れることもできない「無形で抽象的な存在」だということになります。(注2)冒頭のハムレットの質問に学生たちが答えにくかった理由もどうやらこの辺にありそうです。となると、作者の自筆原稿であれ、印刷物であれ、目に見えるテクスト・本文とはいったい何なのでしょう。
 
 さてこの『漱石新聞小説復刻全集』の漱石とは、慶応三年(一八六七)二月九日(陰暦一月五日)に江戸牛込馬場下横町(現新宿区牛込喜久井町)に生まれ、大正五年(一九一六)十二月二日に死去した、千円札の肖像でもおなじみの作家、夏目漱石(本命金之助)のことです。ここに収録した作品は、その実在の作家夏目漱石が、専属の作家として当時の朝日新聞に掲載した作品ばかりです。
 なぜこんなことをわざわざ断るかといえば、それは近年ある種の文学理論に拠って、文学作品から作者を切り離せとか、作者の「意図」など考えるなとか、はては生身の作者になど何の興味もない、などとまるで作者の名を口にするのは悪だといわんばかりの勢いで文学を論じる人たちが出現しているからです。ですからせめてもこのように断っておかねば、ハムレットはどこにあるか、漱石の作品はどこにあるか、と聞いても、際限のない話になってしまいそうです。(注3)
 ハムレットの場合はたしかに私たちにとっては遠い存在で、「シェイクスピア作」といってもすぐにはピンとこないかもしれません。しかし、漱石ほどに存在感のある作家の作品であれば、それがいつどのように書かれ、どのような形で読者に提供されたのか――それは文学作品の「もとをただし」、「過去とのコミュニケーション」につとめることですが――作者に密着した作品の考察もさほど難儀ではありません。しかもこの考察を深く経れば経るほど、それとは対極にある、「社会的産物」あるいは「商品」としての文学作品・本文という新たな世界が、それとの対比によっていっそう鮮やかに見えてくるのです。作者に密着した深い考察があってはじめて、「誤植の美学」といった新しい境地の探索も可能になります。(注4)
 その意味で、文学作品のもとをただし、その在処を問い続けることは、将来どのような状況が生じようとも、有効な方法であり続けるでしょう。(注5)
 そういうわけで漱石について、その『三四郎』はどこにあるかと聞かれれば、それは、「夏目漱石による夏目漱石の作品」であるかぎり、明治四十一年九月一日から十二月二十九日まで百十七回ほぼ毎日掲載(大阪もほぼ同じ)され、快調なペースで執筆されていたその時点の漱石に、その「頭の中」にあると答えるのが第一番ではないでしょうか。(注6)
 「頭の中」などといえば、まさに「無形で抽象的な」ものが存在する典型的な場所ですが、気むずかしい人からは、他人の頭の中などわからない、と一喝されそうです。しかし別に難しく考える必要もないのです。
 誰かからもらった手紙を読む時のことでも考えればわかりやすいのですが、その手紙中に意味のはっきりしない箇所や誤記らしき部分(Slips of the pen, seemingly erroneous and nonsensical)に出会っても、私たちは私たちなりに、その人が「頭の中」で言いたかったことを推し量り、「発見」しながら読んではいないでしょうか。「書かれたままの形」には特にこだわらないで、それをそっと自分の「頭の中」で修正しながら、読んではいないでしょうか。それは私たちが、「書かれたままの形」が「手紙」そのものではなく、それを「発見」するための「手段・資料」なのだと、それなりにわかった上でしていることことだと思われます。
 この、「手紙」を読むことと、「無形で抽象的な」文学作品を作者の頭の中から「発見」することとどれほど違うでしょう。違うのは、手紙なら通常は一点・一種類で、個人宛である場合が多いのに対し、文学作品の場合は不特定多数に宛てて、いろいろな本文が存在するということです。しかし特別に本質的な違いがあるとも思えません。
 では漱石の場合、作品を「発見」するためには、どんな本文があり、どれを拠り所にして読めばいいのでしょうか。
 まず思い浮かぶのは漱石の自筆原稿です。漱石の場合、明治の他の作家に比べても自筆原稿がたくさん残っています。次には、その原稿を使ってはじめて活字化されたいわゆる初出の本文、新聞や雑誌です。さらには漱石自身もその製本に携わった美しい初版本などの単行本があります。漱石の死後は全集も出版されて、多数の版を数えています。(注7)これ以外に今日ではたくさんの文庫本も存在しています。それぞれの版はそれぞれに存在意義を持つわけですが、漱石という「作者」が読者に読ませたかった、「漱石に拠る、漱石の作品」ということになると、どれでもいいというわけにはいきません。(注8)
 
(二)「活字信仰」ならぬ「自筆原稿崇拝」
    ――「漱石が書いたままの形」――自筆原稿――とは何か?
 
 「無形で抽象的な」漱石の文学作品を「発見」するのには、一番役に立つのは漱石の肉筆、自筆原稿だと考える人が多いかもしれません。「自筆原稿に基づいて本文を一新し、漱石が書いたままの形でその文章を読んでみたいという願望に応えます」と謳った新漱石全集の編者もその一人でしょう。「活字信仰」ならぬ「自筆原稿崇拝」とでもいったものが、どこかにありそうです。
 たしかに印刷物には常に誤植の可能性があり、漱石が書きたかった通り、「意図」した通りをただしく知るために自筆原稿は欠かせません。漱石の作品を「発見」する上で、自筆原稿が残っているかどうかは大きな意味があります。
 さらに漱石ほどの作家ですと、それ以上に、その書き癖や用字にまでじかに触れてみたいと願う愛読者がたくさん存在しています。漱石原稿、とりわけ初期の『坊っちやん』あたりには、「漱石的表現」とでもいえる、他にはない漱石特有のすばらしい用字の世界がたくさん存在しているように思われます。
 私自身、長年草稿(自筆原稿)の購読を授業の中心に置いてきましたが、漱石作品の手書きの世界にとりつかれた人間という点では人後に落ちないつもりです。
 ある日私は、『坊っちやん』の原稿を読んでいて、坊っちゃんが山嵐から借りた一銭五厘はふつうに「返す」と書かれているのに、清から借りた三円の方は例外なく「帰す」となっているのに気付きました。坊っちゃんにとってこの「三円」は清の「方破れ」(分身)だったからです。漱石の用字は最も身近にいた弟子の森田草平などからすら「無方針の出鱈目」(注9)と言われ続けていたのですが、私は、漱石のこのような書き分けを「発見」して以来、漱石の用字の繊細さに改めて注目するようになりました。漱石が『坊っちやん』を書いてからこの種の問題にはほとんど注目されなかったからです(少なくともこの書き分けを指摘する論文は見あたりませんでした)。というのも、『ホトゝギス』の編集者高浜虚子は、『坊っちやん』が印刷される直前に、漱石に依頼されていた方言の訂正を越えた多数の越権行為的な添削を施したのですが、漱石の独創的な用字には関心を示すことなく、この原稿を急ぎ秀英舎印刷所へ送ってしまいました。おかげで、印刷された『ホトゝギス』の本文では、「帰す」は平凡な「返す」に直されています。その後この自筆原稿は長らくどこかへお蔵入りとなっていたようで、その後漱石の元に「帰された」形跡もありません。(注10)
 以上のような点からも、印刷された本文には誤植を警戒する必要があります。漱石からかなり隔たった現代においても、我々は自筆原稿を精密に辿ることによって、印刷物しか目にする機会がなかった同時代読者(Contemporary Readers)には伝わらなかった漱石の深部へ新たに到達できる可能性すら残されています。
 
 しかし、このことと漱石原稿の「漱石が書いたままの形」を、一般読書用の本文として提示することとは、次元の異なる別の問題です。
 そもそも原稿とは、印刷のための「資料・スケルトン」であって、作者が読者に提供する、すなわち一般読者が読む本文は、編集者の手を経て、印刷所で様々な肉が付加されてはじめて出来上がるものです。
 例えば漱石の原稿にはパラルビしか付いていないが、――新漱石全集はこのルビを特別扱いしてパラルビ付き本文を定めている――本論後半で言及するように、当時の新聞は総ルビになると決まっていて、すでにルビ付活字も導入されていたわけだが、「新聞小説家」漱石は当然それを前提に執筆していたはずである。実際問題として、原稿のルビの大半は、別に読み方が難しいわけでも特別な読み方をさせるわけでもなく、執筆リズムに余裕さえあれば他のどこにでも付け得た類のものだと考えて差し支えありません。したがってこの種のルビをことさらに生かしてパラルビ付本文を一般読書用に作成するのは漱石の執筆意図を歪めてしまうことになります。
 次のようなおかしな話もありました。漱石の自筆原稿をはじめて見た学生が、しきりに感心しているのです。「さすがに漱石はモダンだ。読みにくい正字体で書いていると思っていたのに、常用漢字を多く使っている。まるで現代作家のようだ」
 たしかに漱石が原稿に書いた漢字の字体は今の常用漢字に近いのが多いのですが、しかしそれゆえに漱石がモダンということではまったくなくて、当時の筆記体・略字体がそういうものであったということです。自分の書いた字体が印刷所で正字体(旧字体)になることは漱石ならずともよく知っていたし、そもそも当時の印刷所に漱石が書いたような略字体の活字などありませんでした。
 ですから忘れてはならない大事なことは、漱石の原稿には、明治という時代や執筆・出版形態の刻印・「歴史的コード」が、目には見えなくとも押されているということです。それを無視した単純な「平成流」活字化など許されません。
 さらに、先ほど「文学」の定義として、「(literature)情緒・思想を想像の力を借り、言語または文字によって表現した芸術作品」とありましたが、文学作品は、多くの場合、この文字――「思想の不完全な表現でしかありえない」といわれるこの文字――を表現手段・媒体として用います。ですから、それが作者であれ誰であれ、一人であれ二人であれ、その性質上、文字によっては思ったこと、言いたいことを完全に表現できるわけではないということ、自筆原稿であれ何であれ、「過去のある瞬間の産物」ともいわれる文学作品の「おおよその姿」を伝えるに過ぎないということを、忘れたくないものです。
 以上、漱石の自筆原稿が即「作品」でないのはいうまでもないが、作品を「発見」するための手段・資料としても必ずしもベストではないということを述べてみました。(注11)
 
 
(三)漱石と読者の出会い
     ――「新聞小説家」漱石の誕生と初出本文の歴史的意義
 
 では自筆原稿から印刷された初出の本文、朝日新聞に発表された本文の方はどうでしょうか。この本文は、別の次元から、漱石同時代読者の目にはじめて触れた本文として、「社会的産物」、「商品」として極めて大きな歴史的意義があります。新聞の印刷については五章でまとめて書くことにします。
 漱石は明治四十年四月に東京朝日新聞社へ破格の待遇の専属作家として正式入社し「新聞小説家」としての道を歩むことになるが、(注12)もともと大阪朝日新聞社主筆の鳥居素川が漱石を招聘していたために、今のように密接な関係にはなかった大阪朝日へ漱石はずいぶん気を使ったようである。初期の小品類を中心に、大阪版にしか掲載されなかった重要な小品が何点もあり、逆に東京版にしか掲載されなかったものはごくわずかである(次の五章を参照)。さらに長編でも、大阪側から依頼の作品であったためであろうが、通常の東京ではなく大阪へ方へ原稿が送られ、そこで原稿から直接組まれたと思われる『坑夫』のような作品も存在する。
 このようなことをここで特に書くのは、漱石という人がまことに義理堅く、人一倍責任感の強い人であったということを、本文の立場からも改めて指摘しておきたいためである。
 漱石は、本巻冒頭に収録の「入社の辞」の最後を、「人生意気に感ずとか何とか云ふ。変わり物の余を変わり物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為めに、変わり物として出来得る限りを尽すは余の嬉しき義務である」と締めくくっているが、創作に専念できる漱石の喜びようが伝わってくる。
 六巻『彼岸過迄』の予告文の中では次のようにも述べている。
 
 東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上つてゐる。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を新率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる。
 
 漱石は、『明暗』を絶筆するまでの十年間、時には筆の進まない事態に苦しみながらも、専属の新聞小説家としての自覚を誰よりも強く持っていた。そうした漱石であってみれば、自分の「作物」を読んでくれるごく一般の読者のために、新聞紙上に表れる活字の「形」と自分の書きたかった作品とが一致するよう、精一杯努力したはずである。
 高木文雄氏は、『坊っちやん』の校訂本の中で、「校訂は、既存の異本を比較し、作者が原稿を書きながら豫想してゐたであらう〈幻の版面〉を追求する」(注13)と書いているが、新聞小説に対して漱石は「幻」を越えて具体的且つ明確なイメージを持っていたと思われる。
 漱石は、朝日新聞への入社以前『ホトゝギス』に掲載した『吾輩は猫である』や『坊っちやん』では松屋製の二十四行、二十四字詰原稿用紙を使っているが(『ホトゝギス』は通常のページは一行二十四字のべた組であった)、朝日新聞入社直後は、『虞美人草』では二十行、十九字詰の松屋製原稿用紙を使っている。その時点の東京朝日新聞は一段が十九字詰であったからである。漱石はその後まもなく十行、十九字詰の「漱石山房」原稿用紙を自家用に製作し、『三四郎』あたりからこの原稿用紙を用い始めている。朝日新聞の一行が十八字に変更されると、最後の一ますを空けて、一行十八字で執筆した。(注14)
 漱石は、当全集八巻『先生の遺書』の予告で、「今度は短編をいくつか書いてみたいと思ひます。其一つ一つには違った名をつけて行くつもりですが、予告の必要上全体の題が御入用かとも存じます故それを「心」と致して置きます」と書いています。
 つまり「心」は、いろいろな短編をまとめた General Title(総合タイトル)に過ぎなく、『先生の遺書』はこの中に収める作品一つになる予定でした。それが書き進めるにつれて長編になってしまい、結局漱石はこれ一点しか書きませんでした。新聞掲載後に単行本になるに際して『先生の遺書』は、全体が上・中・下の三章に分けられ、本のタイトルも『こゝろ』となってしまいました。新聞と初版では、本文自体には細部を除き事実上違いはないのですが、作品の「姿・形」としてはかなり違ったものを感じます。別作品と考えてもいいくらいです。『こゝろ』の読者はこのあたりの経緯をよく知ったうえで読んでほしいものです。
 以上、漱石の新聞小説においては、一点選ぶとすれば、その紙面つまり初出形の本文が漱石の「作品」に一番近いと言えそうです。漱石の「頭の中」にあった作品を厳密に再構成したいとなれば、新聞を基本(底本)に置いて、原稿をしっかりと参照するというのがベストでしょう。
 
 
(四)掲載作品について
 
 漱石新聞小説は、長編はすべて、当時の朝日新聞としてはめずらしく東京版と大阪版の両方に掲載されたが、これは前章で述べた漱石の朝日新聞社への入社の経緯以外に、作家漱石への世間の評価・注目度がひじょうに高かったためでもあろう。その結果双方には挿絵の有無やカットの違いはむろんのこと、本文上の違いも無視できない程度に生じてしまった。(注15)
 本全集は、大阪版にしか掲載されなかった少数の作品を除いてすべて「東京版朝日新聞の読者に提供された本文」を復刻する方針としたが、大阪版の異同についてもなるべく詳しく対校表に記録し、大阪版の本文がある程度再構成できるように努力した。
 「東京版」については、当時すでに「最終版」に至るまで各種の版が製作されていたことが各機関に現存する紙面を比較して明らかであるが、漱石作品の本文については、同じ東京版であれば、版が違ってもプレスバリアントの類(印刷中の活字の脱落やその補訂など)を除き異同はなかったようである。現存する原紙が少ないので、確たることは言えないが。
 当復刻全集が収録する作品を一通り、東京版に掲載の日付・掲載回数と共にあげる。大阪版の詳細については、当全集各巻の東京版・大阪版対校表を参照されたい。当時の新聞印刷上、書誌学・本文上、特に問題のある作品については次の五章で具体的に論究したい。
 東京版における長編小説の掲載開始日と最終日、及び回数は以下の通りであるが、その詳細と大阪版の掲載日については、該当の各巻を参照されたい。
 
『虞美人草』
 明治四十年六月二十三日ー同年十月二十九日。百二十七回。
 
『坑夫』
 明治四十一年一月一日ー同年四月六日。九十一回。この作品については、次の五章を特に参照されたい。
 
『三四郎』
 明治四十一年九月一日ー同年十二月二十九日。百十七回。
『それから』
 明治四十二年六月二十七日ー同年十月十四日。百十回。
 
『門』
 明治四十三年三月一日ー同年六月十二日。百四回。
 
『彼岸過迄』
 明治四十四年一月二日ー同年四月二十九日。百十九回。
 
『行人』
 大正元年十二月六日ー同二年十一月十七日(休載 同二年四月八日ー九月十五日)。
 百六十七回。
 
『先生の遺書』(『こゝろ』)
 大正三年四月二十日ー同年八月十一日。百十回。
 
『道草』
 大正四年六月三日ー同年九月十四日。百二回。
 
『明暗』
 大正五年五月二十六日ー同年十二月十四日(中絶)。百八十八回。
 
 次に小品についてであるが、最初に『滿韓ところヾ 』が、五十一回という長さのために本巻一巻へ収録する余裕がなく、思い切って省略したことをお断りしておく。
 本巻冒頭の『入社の辞』(明治四十年五月三日)はいわゆる小品ではないが、漱石作品への「序文」の意味を込めて、特にこの巻の冒頭に置くことにした。
 小品掲載の詳細は本巻各ページに記してある通りだが、以下に大事な点を記述しておきたい。まず大阪版にしか掲載されなかった作品があり、それは以下の通りである。
 
 『京に着ける夕(上、中、下)』(明治四十年四月九ー十一日)
 『文鳥(全九回)』(明治四十一年六月十三ー二十一日)
 『永日小品』の「行列」から最後の「クレイグ先生(上、中、下)」まで(明治四十二年二月十五日ー同年三月十二日)、
 『初秋の一日』(大正元年九月二十二日)
 
 逆に東京版にしか掲載されなかったものもあり、それは次の二点である。
 
 『ケーベル先生の告別』(大正三年八月十二日)
 『戦争から来た行き違い』(大正三年八月十三日)
 
 なお、今日の漱石全集の『永日小品』には、単行本『四篇』中の『永日小品』に収められているものすべてを含めているが、しかしこれらのすべてに当時の朝日新聞紙上で『永日小品』の名が冠せられていたわけではない。本復刻全集の『永日小品』に収められている作品は、あくまでも当時の朝日新聞にそのような形で掲載されたものだけであり、それ以外の形で掲載されたものは、『永日小品』とは独立して掲載している。
 それはすなわち、次の三点である。
 
 元日
 クレイグ先生(上、中、下)
 紀元節
 
 
(五)東京版・大阪版――主に印刷過程について
 
 当時の朝日新聞と漱石との関係についてあらましを知りたい場合には、『朝日新聞記者 夏目漱石』(立風書房 一九九四年七月二十九日)が方々からすぐれた論文を集めた手っ取り早い一冊として便利である。その中には浅井清氏の「漱石と新聞小説」も収録されている。(注16)『朝日新聞社史』もすでに多くの版を数え充実してきている。
 もっと専門的なところでは、一般の入手は困難な限定版であるが、『アステ』第八号(リョービイマジクス 一九九〇年十二月二十五日)があり、新聞の印刷を特集し、その中には島連太郎の著書から「揺籃期の新聞印刷」が再録されており、輪転機採用の時期や経緯、ルビ付活字の製作時期、採用時期等について多くの情報を与えてくれる。(注17)
 しかし、印刷史家という名の専門家は、今回でいえば東京版と大阪版の本文異同はどのようにして発生したのか、といった本文に関わる問題点ともなるとどうも関心がないようである。結局、彼らからすれば素人であるわれわれ文学者・書誌学者がこつこつと調べるしかないのだが、印刷史家は、その専門的知識を生かしてぜひこの方面にも学際的に進出してほしい。印刷史とはいっても、究極的に大事なのは活字そのものではなく、それが残したインキの跡を辿ることではないのか。本文に興味を持たない印刷史家というのは少々不思議である。
 漱石当時の朝日新聞は、今より少ない四枚八ページ建てであったが、紙面のサイズは縦、横ともに今日とほぼ同じかほんの少し小さい程度であった。東京版を見て度肝を抜かれるのは、第一面が全面広告欄、それも書籍の広告が多いことであった。漱石の作品は第五面(五ページ目)のトップか最下段に掲載されることが多かった。これに対して大阪版では、漱石の長編はほんんどが、トップニュースが掲載された第一面の最下段に掲載された。
 漱石が掲載を始めた明治四十年頃から十年間ほどの間に、東京朝日新聞の紙面の段数、一行の字数、活字サイズは次のように変更されている。
 すなわち、明治四十年の『虞美人草』では、一ページに七段、一行が十九字詰、五号活字であったが、明治四十二年の『それから』では一ページ八段、一行十八字詰、活字は同じく五号、となり、大正三年の『こゝろ』になると、九段、十七字詰、活字は九ポとなり、これが『明暗』まで続いている。
 上にあげた島連太郎の著書によると、明治三十四年の大阪朝日新聞社に続いて、翌三十五年には東京朝日新聞社にもルビ付き活字が導入されたようだが、実際の紙面がすべてルビ付き活字で組まれたわけでもなさそうである。印刷された紙面からルビ付活字であるかどうかを特定するのはなかなかむつかしいのであるが、本全集の内容見本にもある『三四郎』の一回目(明治四十一年九月一日)だけでも、よく見るとわかるが両方が混ざっているようである。
 隣(となり)、狂(きやう)、位(くらい)、京(きやう)、女(をんな)のような三文字ルビが頻出しているが、ルビ付活字でなければこのようなルビの入れ方はできないはずである。他方では、几帳面(ちゃんちゃん)のようなルビ付活字としては用意されていないと思われる読み方のルビもある。これはルビ付活字ではないと思われる。
 東京版と大阪版では以下のような決まった異同が頻出し、前二者はルビ付活字のようであるが、活字の製作は東京と大阪各々独立してなされたようである。
 
    東京     大阪
    其(その)      其(そ)の
    此(この)      此(こ)の
    付      附
 
 ともあれ漱石の本文が総ルビで組まれたことは事実で、漱石の頭の中の「作品」は総ルビ付のはずであった。
 東京版、大阪版の片方にしか掲載されなかった作品は、前の章で明記した通りであるが、両方で掲載された作品の場合には必ず異同(バリアント)が生じており、それがどのような経緯で生じたのか、ひいてはこの両者と漱石自筆原稿との関係はどのようなものであったのかは、大事な問題となる。
 東京と大阪の双方で掲載される場合、多くの場合、東京版が漱石から届けられた自筆原稿から直接組まれ、そのゲラ刷りの類が大阪へ送られそれを見て大阪版が組まれたようである。ただしゲラ刷りといってもいろいろな段階があり、どの段階のものが送られたかは定かでない。今後の研究を待ちたい。東京での組み版後、自筆原稿自体が大阪へ送られた可能性はほとんどない。(注18)
 このあたりを調査する書誌学の調査は、大きく分けて外的証拠(External Evidence)と内的証拠(Internal Evidence)による。外的証拠とは、調査をする対象以外の周辺の資料から得られるデータ、例えば当時の書簡類や印刷所にたまたま残っている記録を拠り所にして判断することであり、これに対して内的証拠とは、調査する対象そのものを「もの」として分析し、それに基づく推定によって得られるデータである。通常信頼できる外的証拠が存在することは少なく、この種の書誌学的調査ではほとんどが内的証拠に拠らねばならない。内的証拠の分析には熟達の目が必要で、調査結果の信頼性は分析者各人の力量にかかるところが大きい。
 長編では、外的証拠、内的証拠の両面から、例外的に『坑夫』のみが大阪側へ自筆原稿が送られそこで先に組まれ、東京版はそのゲラから組まれたリプリントであると判断できる。
 外的証拠としては、この時期に大阪朝日新聞社から三十日続きの作品が依頼されたことが鈴木三重吉宛の漱石の葉書(明治四十年十二月十日)に明らかで、依頼よりは長くなったているがこの作品が『坑夫』になったと思って間違いない。(注19)
 内的証拠としては、両版の組み方や対校表から得られるデータがあるが、目の肥えた者になら両紙の一回目を見比べるだけで一目瞭然であろう。大阪版が丁寧に製作された挿絵を載せる正一日分の分量であるのに対して、東京版は大阪版の一日半ほどの分量を挿絵無しで無造作に掲載した感がある。
 両紙の異同については対校表に詳しいが、東京版には、大阪版にある語句を不注意に脱落させた結果だと思われる箇所がある。さらに、漱石の自筆原稿のままのルビを生かしていると推定される大阪版の箇所が、東京版ではおそらくはルビ付活字を使って、通常の読み方になっている箇所があり、逆のケースは起こりにくい。大阪版の慰藉(いせき)、蒼穹(おほぞら)、形状(かつこう)、出所(でどこ)、幾日(いくんち)、一日(いちんち)などが、東京版では通常の読み方になっているのがその例である。この内的証拠二点からだけでも東京版が大阪版のリプリントであると結論は動かない。
 小品では、大阪版にしか掲載されなかった作品は、自筆原稿が大阪へ送られそこで組まれるしかなかったはずである。東京と大阪の両方で掲載された『夢十夜』についても、自筆原稿は現存しないようだが、両紙のさまざまな異同から判断して大阪で先に組まれたと思われる。『永日小品』についても、大阪版にしか掲載されなかった「行列」以降の後半だけでなく、東京版にも掲載された「蛇」から「儲口」までの前半を含むすべてについて、原稿が大阪へ送られ、そこで組まれたと思われる。これらについては東京版の方がリプリントである。
 上にあげたもの以外はすべて東京で自筆原稿から直接組まれ、大阪版はそのリプリントのようである。そのため全体的には東京版の本文が漱石の自筆原稿に近いより正確な本文で、大阪版の方に本文上の問題点が多く発生している。その端的な例としては、東京版に載った『入社の辞』が、その後半部分のみが大阪版で『嬉しき義務(下)』と題され明治四十年五月五、六の両日に繰り返し掲載されながら、前半部分の「上」(?)はついに掲載されなかったような例すらあげることができる。
 
(注)
 
(注1)
 当復刻全集には多くの手が加わっているが、とりわけゆまに書房編集部吉谷伸明氏の力が大きい。氏は、資料の調査・収集に始まり編集・造本過程に至る全過程にその博識と情熱を注いだ。東京版と大阪版の対校には、フリーエディターの小松みどり氏、出野哲也氏、兼原明子氏、千早和子氏(順不同)が関わっている。
 当解題の執筆に際しては、注にあげた文献の諸氏以外に、矢作勝美氏、小宮山博氏、府川充雄氏、小池和夫氏、境田稔信氏、高野彰氏、永峰重敏氏、それにゆまに書房編集部顧問の藤田三男氏(順不同)から多くのご教示を得た。深く感謝したい。
 漱石の新聞小説を掲載した朝日新聞の原紙は今も少数の研究機関で保存されているが、しかしこれをじかに閲覧できるのは限られた専門家である。一般の者は読みにくいマイクロフィルムかそのプリントに拠るしかなく、これは貴重資料保存の観点からやむを得ないことだが、マイクロフィルムの本文を続けて読むのは数日分がやっとである。今日ではどれほど熱烈な漱石愛読者であっても、漱石当時の新聞読者のように、その長編新聞小説を初出の新聞で通読するのは至難の業だったということである。
 その意味で、一日分を見開き二ページに収め、原紙の姿に近い実物大の復刻とする当復刻全集の出版は、漱石当時の新聞読者に近い環境を現代の読者に与えるという点で、どんな理屈にもまして意味がある。これまで新聞本文を単行本や漱石全集に至る一過程として軽く捉えていた人も、この復刻全集を身近に備えられて、新聞本文こそが漱石本文の核であることをしっかり理解していただきたい。
 
 私にとっても、この『漱石新聞小説復刻全集』の編集作業が最終段階を迎え、監修者として解題を執筆する段階に至ると、かつてのいろいろな思いが改めてよみがえってくる。
 故三好行雄氏から依頼のあった『夏目漱石事典』(學燈社 平成二年七月十日)に収録する「本文批判の問題」の執筆を引き受けたのはもう十年以上も前のことである。勤務先の紀要その他に英米書誌学・本文批評を専攻する立場から、日本近代文学の本文研究を漱石を中心に集中的に発表していた時期であった。今日、日本近代書誌学協会のような学会が設立され、本文への関心が多種多様に示されるようになってくれば嘘のような話だが、その時期にはまだ私以外には日本近代文学、特に漱石の本文を、書誌学(Bibliography)の分析的方法を基本にすえて真正面から論じる者など、まだ大変珍しかった。そのためもあって三好氏からは、私にとって力の余ることではあったが、日本近代文学一般に適応できるような内容となるよう期待された。
 この論文はかなり圧縮された内容であったので、今度はそれを一般にわかりやすく具体的に説明する必要があり、三年後には日本エディタースクール出版部から『本文の生態学 漱石・鷗外・芥川』を出版することになった。
 これらの論文や著書における私の任務は、日本近代文学において「本文とは何か」「本文校訂とはどのように行うのか」の基本的な問題を、この方面の議論には慣れていない日本の人たちに具体的且つ論理的に説明することであった。しかし世界的には、本文批評は、今世紀初頭から指導的立場にある英米の書誌学的方法を中心に、すでに大きな発展・展開を見ていたが、日本の人たちにその現状をそのまま紹介したのでは複雑すぎて理解されるものも理解されなくなる恐れがあった。すでに「作者を軽視する」構造主義的な発想が本文の批評にも大きな陰を投げかけていた時代であったが、私はそうした懸念から、 sophisticatedな議論にはあまり触れず、伝統的で保守的な「作者が書いた本文をいかに復元するか」の立場を明快に示したいと思った。実際問題として、この根本をいい加減に済ますような立場では、次への展開があやしくなる。英米で本文研究を含む広い意味での書誌学的研究が、今日でもとどまるところを知らない発展を続け、その一分野となった「書物史」(歴史書誌学)においても御本家フランスを凌駕しつつあるのは、グレッグ以来の確固たる書誌学研究が根幹にあるからに他ならない。
 そこで私は、特に『本文の生態学』において、自筆原稿の大切さ、「作者が書いたまま」を厳密に活字化する大切さ、を冒頭から繰り返し強調して執筆した。漱石には日本近代文学の作家の中でも例外的に自筆原稿が多く現存しているのに、漱石全集になぜこれほど改竄や誤植が目立つのか、なぜ「漱石が書いたまま」がもっと尊重されないのか、と繰り返し強調した。
 新しい漱石全集が出版されることになったのはそれから程なくしてであった。書店にはポスターが張られ、手元には内容見本のパンフレットが届いたが、それを見て私は、一瞬は喜びながらも、次の瞬間にはため息に変わった。今でもよく憶えている。「自筆原稿に基づいて本文を一新し、漱石が書いたままの形でその文章を読んでみたいという願望に応えます」と派手に謳っているのはまだよかったのだが、よく見てみるとその「漱石が書いたまま」とは、私がそれまで言ってきた意味からはずれていて、「平成初出主義」(?)とかに基づく――それは漱石当時の新聞が総ルビの形態であったのに、それを考慮しないで、現代作家の書き下ろし原稿をはじめて活字にするように、自筆原稿通りパラルビ付にする――といった意味での「書いたまま」だったからである。
 私自身たしかに「漱石が書いたまま」とは書き、その大切さを繰り返し強調してきたが、そこには「漱石が読んでほしかったまま」と併記することも忘れなかった。別ないい方をすれば、本論中にも書いてあるが、「漱石が頭の中で書いたまま」の意味を強く込めていたのである。私の「書いたまま」とは、「漱石が意図したまま」「漱石が読者に提供したかったまま」のことであった。新聞掲載を前提に執筆された作品が、当の新聞の形態を無視して、自筆原稿に書かれたままの本文の「形」で、一般読者に提供されることなどあり得ないことであった。専門的にいっても、この全集の方針は「批判的校訂本」(Critical Edition)のレベルには達せず、逆に「翻刻本」(Diplomatic Edition)ともいえない中途半端なものである。
 漱石の新聞小説は総ルビ付きの形態で発表され、そのように読まれた以上、その形態で読むのが正当である。これまでの漱石全集では少なくともその点は守られていたのだが、新漱石全集の編者は、「漱石が書いたまま」を文字通りに解釈、そのまま活字化することと勘違いしてしまった。しかも旧仮名遣いはそのままで、漢字は常用漢字化された。この日本語表記の異様さは、ある意味で自筆原稿が現存しないために全面的に新聞本文を底本にせざるを得なかった『坑夫』や『行人』の場合にはもっと目立ち、小学生でも読めるやさしい常用漢字に旧仮名遣いのルビが付いている。伝統ある漱石全集の本文としてもこのような本文があり得るであろうか。 
 しかも同全集は、個人の研究者になら、それがどれほど重要な研究であっても絶対に閲覧を許可してこなかった個人所蔵の漱石原稿を、惜しげもなく借り出して閲覧できているのである。多方面からの好意に支えられながら、このような低レベルの全集をつくってしまったことに対し、もっと社会的責任を感じてほしい。
 自分としても、この新岩波全集の問題点を改めて指摘しなければならない立場に立ち、複雑な思いを禁じ得なかった。同時に、批判する以上は、それなりの代替案を準備する必要性も感じていた。
 この『漱石新聞小説復刻全集』はその意味で私からの代替案でもある。「夏目漱石による夏目漱石の作品」を読みたいのであれば、こちらの方が新漱石全集の本文よりもその「作品」に近いと自信をもって申し上げることが出来る。
 この解題では、漱石の本文とは何か、文学作品の本文とは何か、ということを改めてわかりやすく述べるつもりである。新聞本文の重要性を強調するあまり、自筆原稿をおろそかにするわけではないので、その点誤解はしないでいただきたい。印刷物に誤植は避けられない。自筆原稿はこれを正す意味でもなくてはならない。
 なお、新漱石全集に関連する拙論には以下のようなものがある。
   「自筆原稿とは何か」「朝日新聞」(1994年4月1日、夕刊)
   「残念な新岩波『漱石全集』の本文」「日本近代文学」(五十集、日本近代文学会、1994年5月、128-9)
   「拝啓岩波書店殿」「國文學 関西大学」(七十二号、1994年6月30日、15-38)
   「新『漱石全集』の本文を点検する」「言語文化論集」(39号、151-88)
   「(学会報告)日本近代書誌学を成立させるために」(第一回)「言語文化論集」(46号、326-364)
   「書誌学用語、書物用語等の検討について、その他」「日本近代書誌学協会会報」(3号、1998年2月20日、3-6、25-29)
 
(注2)とらえどころのない気体か液体のような不確定な存在と言ってもいいでしょう。存在のあり方そのものが debatableということです。その点(its location)は、文学テクストの本質に深く関わることです。
 
(注3)「歴史」を無視し、本文の文字列(Sequences of Words)にしか興味を示さない、「みんなで渡れば怖くない」といった読み方が堂々と行われているが、それがどのような結果をもたらすのか、このような人たちは認識しているのであろうか。少なくとも、「信頼できる本文」などという概念はどこかへ吹き飛んでしまうが、それはつまるところ文学研究の存在意義にも関わってくるのである。
 たしかに特に遠い昔・はるかな彼方の文学作品であれば、作者といわれてもぴんとこない点はある。しかしこうした文学研究者の多くの実態としては、それよりも、書誌学や本文批評といった根本的な学問をおさめた経験がなく、そもそも「本文とは何か」などとまともに考えたことがないために、平気でいられるのである。
 広い文学研究の中の一部門として、文学理論を理論として追求するのはけっこうであるが、これを受験勉強に追われ文学作品など読んだことのない大学新入生に「布教」するのはまた別問題である。「免疫」のない若い学生の中には、このような理論を日常の読書の中で文字通りまともに受け取ってしまうことが多く、私が教室で接する学生の中にも、作者を意識的に無視しようとしたり、「昔のことを細かく調べるのは大変だから、テキスト論で論文を書く」などと見当違いな発言をする学生まで現れている。
 教師たるもの、自説を展開するのは結構で、必要でもあるが、このような学生達の将来を考えれば、もっと日常の実態を考え、バランスのとれた講義内容にする義務があると思われる。大学の初学年生になら、流行の文学理論など教える必要はなく、その前に漢字の読み書きを教えたり、さまざまな辞書を引く練習をさせたり、何よりも、できるだけ多くの文学作品を実際に読ませ、読書の訓練でもさせる方がよほど意味がある。
 漱石研究者の中にすらこうした立場に近い人がいて、「テクストはまちがわない」(石原千秋『漱石研究』第六号、 翰林書房 一九九六)と大声を上げ、立場の違った研究者を罵倒する人もいる。常識で考えて、漱石も人間、その書くものの中に記憶違いや書き間違いはあるはずで、印刷物ともなれば誤植のない文献など存在しないといってもよい。
 が、他方、石原氏の「テクストはまちがわない」のこの姿勢は、見方を変えれば、「漱石が書いたまま」を標榜しながらもその本文を安易に誤記だ誤植だとみなして改竄し続けたかつての漱石全集の編者に比べて、ひじょうに大事なことである。石原氏は、氏とは対極の立場にあるといってもよく、「生きた人間が精魂を込めて書きあげた作品を作者から絶縁して扱へといはれても、現在程度に未開な時代の、素人の読者には惜しくてできるものではない。ときどきは作者の顔つきも見て安心したいではないか」と述べる高木文雄氏が、『坊っちやん』自筆原稿の校訂本(朝日書林 一九九九年二月四日)の中で、カタカナの読めない無学の清に宛てた坊っちゃんの手紙の中に一箇所だけ見出されるひらがなの「赤しゃつ」――他の版ではすべて「赤シャツ」に統一される――に注目したり、「真面目」の「目」の脱字と片づけられてきた「真面」に対して、「まがお」あるいは「まとも」と読ませる苦労をする時、おそらくはこれを多とし、評価を与えるのではないであろうか。相反する立場であっても、深い段階に達した考察どうしであれば通い合うこともあるという好例である。
 
(注4)「宮」さんのおてがら――『坊っちやん』の誤植「バツタだらうが雪踏(せった)だらうが」についての覚え書き『筑波大学 言語文化論集』(第三十七号 一九九三年三月二十五日)
 
(注5)作者を「全能の独裁者」扱いするようなことでは決してないので、その点誤解がないように願いたい。
 
(注6)この全集第三巻に東京版朝日新聞への掲載月日が一日単位で記されている。
 
(注7)矢口進也『漱石全集物語』(青英舎 一九八五年九月二十五日)を参照。
 
(注8)本文にはさまざまな種類・タイプがあるが、その点についてはすでにあげた拙論「本文批判の問題」『夏目漱石時事典』の特に最初の二ページ「本文とは何か」を読まれたい。
 
(注9)森田草平『文章道と漱石先生』(春陽堂 大正八年)
 
(注10)番町書房から一九七〇年に自筆原稿のりっぱな復刻版が出た。
 高浜虚子の書き入れについては、渡部江里子の筑波大学卒業論文「漱石の自筆原稿『坊っちやん』における虚子の手入れ箇所の推定、ならびに考察」を参照。渡辺によると、虚子の書き込みは細かく数えて八十箇所ほどあり、その中には漱石が依頼した方言の添削を越えた越権行為的な変更も認められる。しかし原稿は漱石が見る間もなく印刷に付されたと思われる。この号の『ホトゝギス』が出た後、漱石は虚子に、「中央公論抔は秀英舎へつめ切りで校正して居ます。君はそんなに勉強はしないのでせう…」云々と誤植の多さに不満を述べているが、この不満と虚子の添削とに関係がなかったかどうか。虚子の書き入れのすべてが漱石を納得させるものであったかどうか。「漱石が書いたまま」を読者に提供すると謳う新漱石全集が、細かい調査もしないで虚子の筆跡を一体とみなすなどとしているのは、ご都合主義である。高木氏も『六書校合 定本 「坊つちやん」』(朝日書林)の中でこのあたりには言及されていない。しかし自筆原稿を底本にする以上、筆跡の鑑定あるいは遺筆の特定は最もベーシックな作業で、これがときにどれほど困難でも、校訂者はその能力と責任において行う必要がある。他版との校合に劣らず大事なことである。
 
(注11)原稿を読むのは、特別な目的のための特別な読み方です。しかもその場合自筆原稿の現物か少なくともそれに忠実な写真版に直接接する必要があります。
 
(注12)入社に際しての漱石の給与その他の待遇については、『朝日新聞記者 夏目漱石』(立風書房 一九九四年七月二十九日)に情報がまとまっており、特に小宮豊隆「朝日新聞入社」の中に詳しい。
 
(注13)この本の正式書名は『六書校合 定本 坊つちやん』(朝日書林 一九九九年二月四日)である。
(注14)この復刻全集が、「凡例」に明記してあるように、「掲載された紙面の姿を可能な限り原寸で復刻し、一日分を見開き二ページに収録」しているのも、漱石が新聞に掲載したままをできるだけ忠実に示したいからである。
(注15)印刷については次の章を参照。
(注16)『講座夏目漱石』第四巻(有斐閣 一九八二年二月)から転載。
 
(注17)島連太郎(一八八〇ー一九四一)著『明治大正日本印刷術史』。なお、『本文の生態学』の二章で『坊っちやん』の文選工に言及したが、そのうちの一人「島」は、大をなす前の若き島蓮太郎であったかもしれない。
 
(注18)もう少し後の他紙で、自筆原稿が直接大阪へ送られたと推定できる具体例がある。大正八年一月に東京日々新聞と大阪毎日新聞に発表された谷崎潤一郎『母を恋うる記』の三回目の自筆原稿が手元にあるが、そこには「大阪行」のスタンプがしっかりと押されている。
 さまざまな内的・外的証拠を含む書誌学的考察によっても、漱石の作品では自筆原稿が直接大阪又は東京へ送られた形跡はないようである。当時の東京と大阪との通信手段は、電話や電報もすでに存在したが、漱石作品においてはこのような方法は使われなかったと思われる。
 
(注19)この葉書について詳しくは、荒正人『漱石研究年表』(集英社 一九八四六月二十日)の該当日の説明を参照。
 『坑夫』については大阪版の本文の方が原稿から直接組まれ、より正しい作品本文を提供すると思われるが、本全集は、東京版が存在するかぎり「東京版朝日新聞の読者に提供された本文」のコンセプトに統一するため、あえて東京版を復刻した。そのため大阪版については、通常以上に本文異同の記録をくわしく記録すると共に、特にその豊富な挿絵をすべて収録している。なお、『坑夫』は自筆原稿が残っていないので、新漱石全集が大阪版を底本にとっている。