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漱石初出復刻全集三部作を編纂して――本文研究から書物史へ――
                            山下 浩
 
(一)はじめに(注1)
 漱石の本文を調べだしたのは二十年ほど前である。当時私は英文学の大作、エドマンド・スペンサー『妖精の女王』(Edmund Spenser: The Faerie Queene, 1590-1609) の本文研究に紆余曲折していた。それは、最近の『英語青年』誌上(注2)においても、ある英米の書物史学者に、「かつて存在した最も周到な学問」(the most stable and staid of humanist disciplines)と言わしめたほどのグレッグ(W. W. Greg)・バワーズ(Fredson Bowers)「英米書誌学・本文研究理論」が、時代の大波に洗われていて、それに基づいた私の仕事も再検証を迫られていた時期であった。定本となる宿命を背負った有名叢書の本文編纂に従事しようとしている以上、失敗は許されない。英米の本文研究の内部にいる人間として、本文の編纂とはどれほどの重大責任を伴うか、変なことをすればどれほどに罵倒されるか、いたいほどよくわかっていた。日本では想像だにできないきびしさである。慎重の上にも慎重を期す必要があり、それ故にそれまでスペンサーに適用していた種々な理論や方針の是非を、私なりに根本から再検証・再確認してみる必要を感じていた。
 当時も今も、日本は文学研究法において一方的な輸入大国といえる。欧米の文学理論や研究法を次から次へと紹介・移入する一方で、これほど多くの文学研究者人口をかかえ、そこには「膨大な時間と労力と資金が注ぎ込まれている」にもかかわらず、独創的な研究法・理論を編み出してそれを海外へ発信するのはおろか、せめても海外から輸入された理論や研究法の是非を日本の土壌において再検証しフィードバックする程度のことすらなかなかできていない。著作の翻訳などで有名になった海外の学者を、金にものをいわせて日本へ招く程度の「国際性」には旺盛だが、そこには欧米のものならなんでもありがたがり自足する一方通行的な受容傾向がまだまだ強い。後進国然とした姿勢である。私が、スペンサーの本文研究に関わる英米書誌学・本文研究理論を英米人とは違った独自な観点から検証してみようと思いついたのには、日本のこうした現状を痛感したからでもあった。この経緯は後日この方面のニューヨークの国際・学際学会で話題にすることになったが、日本文学の根本的問題が海外の専門家の集まりの中で関心を持たれるようなことはかつてなかったと思われる。(注3
 グレッグらの本文編纂理論の検証を、自分なりに、肌で感じられるようなかたちで行ってみようと思ったのは、なんといっても母国語で書かれ、長年馴染んでもいた漱石の本文においてであった。漱石の本文はスペンサーと同じ活版印刷に拠っており、言語や時代の違いなどこの際たいした問題ではなかった。日本近代文学の漱石には、スペンサーとは違い、自筆原稿や手入れ原稿に至るまでの原資料が豊富にそろっており、誤植の発生から字体、ルビの動きまで、本文推移の実態解明に関わる様子が手に取るように明らかに見えた。
 昨年、ようやくロングマン版『妖精の女王』(注4)の出版にこぎつけたが、ここに至る間に漱石において行ったさまざま検証は、グレッグやバワーズの理論が、多少の軌道修正は必要としても、根本的にはまことに健全で活版印刷の本質を深くついたものであることを確認させてくれた。それはスペンサーの編纂方針・本文の決定にどれほどの自信を与えてくれたかわからない。
 漱石を通した英米本文理論の検証は、英米流の切り口・視点で「単純明快」に行ったものであったが、ある時私は、これらの検証の結果を漱石の本文研究として日本語の論文や著書にまとめて発表しておいてもいいのではないか、類似な研究は皆無なのだから、と思いついた。私自身いまだに漱石にも日本近代文学研究にも素人の域を出ない身であるが、それは逆に言えば、私の立場が日本のややこしいしがらみや先入主に煩わされることなくものが見れることを意味してもいた。(注5) そのすべてが日本の土壌において説得力を持つとは限らないけれども、本文研究とはすぐれて学際的な研究分野なのである。日本では想像だにできない英米の壮大な学問体系を背景に置けば、私程度の人間が行う考察でも日本にとって意味があるのではないか。これまでに私が執筆し発表してきた論文や著書の多くは、こうした経緯に基づいている。いわばスペンサー本文研究の副産物であった。
 私がスペンサーにあくせくしていた過去二十年間には、文学批評理論においても、世界的な傾向であったが、次から次へと種々雑多なものが現れては消えていった。漱石研究においてもそうした流れに翻弄される面があったように思う。しかしその方向性は、一言で言えば、「作者」から「読者」への力点の移行であり、それなりに自然な時代の流れともいえる。そのこと自体に特に異議をはさむことはない。しかし私が、とりわけ本文編纂者(textual critic)として、異議をはさまねばならないのは、この方面の、いわゆる「作者の死」や「テクスト論」の批評が真っ盛りの中で、新しい『漱石全集』(岩波書店)が、まことに奇妙なことに、それとは文字通り正反対のコンセプトの、「自筆原稿が現存するかぎりはこれを底本にして、漱石が書いたままのかたちを読者に提供する」と謳う本文を提供してしたことであった。さらには、「作者」よりも「読者」に力点を置くはずの研究者が、この新全集の本文を平然と使用し、引用している事実であった。これは理屈に合わない。こうした立場の批評においては、漱石当時からの、多くの読者の目に触れ、歴史的な洗礼も受けてきた「社会的産物」たる初出や初版の本文の方が、そこにどれほどの「誤植」が含まれていようとも、自筆原稿を過度に重視した新全集の本文よりも相応しいに決まっている。
 自筆原稿には、自筆原稿としての、また別な方面からの使い途がある。(注6)
 ちなみに、「誤植」とか「正しい、信頼できる本文」といったコンセプトは、「作者」を否定したり、「読者」の方を重視する批評においては、曖昧なものとなってくる。何に基づいて「誤植」とするか、「信頼できる本文」とするか、判断の基準がはっきりしなくなるからである。しかしこのあたりまで本文へのこだわりをもって批評にあたっている研究者がどれほどいるであろうか。
 
(二)「漱石復刻全集」製作の趣旨について
 
 紅野謙介氏が『漱石評論・講演復刻全集』の内容見本へ寄せた、「雑踏のなかの漱石」(注7)とは言い得て妙であるが、漱石の小説のほとんどは、(漱石に限ることでもないが)、これまで何度も引用してきた『彼岸過迄』の予告文(『新聞小説復刻全集』第六巻に収録)の中で漱石自身述べているように、当時の一般向け新聞や雑誌へ活字化して提供すべく執筆された。
 
  東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上つてゐる。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を新率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる。(原文総ルビ)
 
 聴衆の前で演奏されてはじめて意味をなす楽譜や、上演によって完結するといえる戯曲の本文に似て、漱石の文学もまた、印刷されて、メディアに発表されて、読者に接して、はじめて「成立する」といえる。漱石文学の重要な原点はそこにある。そうであれば、専門の研究者は言うまでもなく一般の漱石読者といえども、その「原点」すなわち初出の世界へもっと親しく足を踏み入れてもいいのではないか。漱石文学が「はじめての読者」(first audience)を得た本文の世界をもっと身近に体験できる環境があってもいいはずである。後代の人間が安易にいじくってつくりあげた感のある本文を読まされがちな我々にとって、初出の本文はまさに「本物」の世界なのだから。
 「漱石初出復刻全集三部作」はかような思いで企画されたが、それは同時に、『新聞小説復刻全集』第十一巻所収の「解題・注」にも記したように、「漱石が書いたままのかたち」を読者に提供すると謳った『新漱石全集』への「アンチテーゼ」でもあり、日本近代文学を専攻する研究者らに「批評」と「本文」との関わりをもっと強く意識してもらいたいためでもあった。
 それは、少々大げさだが、私自身の研究生活の大半をかけて問い続けてきた「本文とは何か」の命題を私なりに日本語の土壌で問い直してみることでもあった。新聞と雑誌、あるいは単行本といったメディア形態の違いを通して、また、小説、評論といったジャンルの違いを通して、その点を見極めたいためでもあった。本文の「元をただし」、その推移の実態解明・把握につとめることは、それが文字という「思想の不完全な表現でしかありえない」手段によって成立している以上、あらゆる考察の前提であり出発点でなければならない。批評と本文(の決定)が密接にして不可分であるのはいうまでもない。新たな批評には新たな本文が必要とされる。せめても研究者といわれる人々には、このことを観念的理解にとどめおかずに、日常的に実践してほしいものである。(注8)
 世に多い個人全集の編纂・校訂のあり方に再考を促すことも意識している。個人全集には、当復刻全集シリーズがその一例であるが、「雑踏」のなかに「作者」を見る本文(socialized text)編纂から、「作者を聖典化」するあまり同時代の出版メディアを無視して現存自筆原稿に過度に拠った本文編纂もあり、他方では、同じ作者重視のようでも、二十世紀英米で最も影響力を持ったグレッグ底本理論のように、それを一言で言えば、「作者の最終手入れ原稿」(lost printer's copy」の再構成をはかるもの(注9)、などがある。大事なことは、これらの本文は互いに別次元にあるということである。印刷メディアに現れた本文と自筆原稿の本文が、同一全集、ましてや同一作品において同居することなど、なかなか正当化できないということである。全集の編纂には首尾一貫した方針が必要である。
 
 復刻全集三部作においては、単に『新聞小説』『雑誌小説』『評論・講演』を特集するというだけではなく、その各々にふさわしい本文編纂上の基本テーマを設定しそれをクローズアップさせている。
 
 漱石復刻全集の第一回『新聞小説』全十一巻において特に強調したことは、活版印刷というメディアに拠った本文に対する最も根本的な認識についてである。すなわち自筆原稿で「漱石が書いたままのかたち」と「漱石が読者に提供する本文」とは同一ではないということである。たしかに漱石ほどの作家であれば、その独特な書き癖や用字に触れてみたいと願う愛読者が少なくないが、しかしこの自筆原稿の本文を即読者に提供された本文・リーディングテキストだと勘違いしてはならない。同復刻全集の内容見本「監修のことば」には次のように書いた。
 
 そもそも原稿とは、印刷のための「資料・スケルトン」であって、読者に提供される本文は印刷所でこれに様々な肉が付加されてはじめて出来上がる。早い話、漱石の原稿にはパラルビしか付いていないが、――新漱石全集はこのルビを特別扱いしたパラルビ付き本文を定めている――しかし印刷される新聞では総ルビになると決まっていて、「新聞小説家」漱石は当然ながらそれを前提に執筆していたはずである。実際問題として、原稿のルビの大半は、別に読み方が難しいわけでも特別な読み方をさせるわけでもなく、執筆リズムに余裕さえあれば他のどこにでも付け得た類のものだと考えて差し支えない。したがってこの種のルビをことさらに強調するのは漱石の執筆意図を歪めてしまうことにもなる。明治作家の原稿には、明治という時代や執筆・出版形態の「歴史的コード」が含まれているということであって、それを無視した単純な「平成流」活字化は許されないであろう。
 新聞も印刷物である以上多少の誤植は避けられないが、「原稿本意」「原稿主義」とは、自筆原稿を即底本にするというよりも、むしろそれに拠って出版物の誤植を厳密に正すことだと考えてほしかった。新漱石全集は、このあたりを理解しないまま本文を定めてしまったのであるが、その結果、例えば、同じ作品内においてすら、パラルビの自筆原稿本文とこれとは次元の異なる総ルビ付き新聞本文とが混在するといった、異様な本文を提供する羽目になっている。
 漱石愛読者間にこのような全集本文が普及するのは由々しきことであり、それゆえ当復刻全集は、この本文に代わるべく、当時の「東京版朝日新聞の読者に提供された本文」という単純明快なコンセプトの本文を提供することにした。はじめて活字化され、当時の読者にはじめて読まれた本文として、その歴史的意義ははかりしれないからである。これ以外に初版本類の本文も存在するが、その大部分は新聞からのリプリントである。出版形態にできるだけそって復刻された当全集が、書架に飾り置かれる資料集としてではなく、日常的に読まれ引用にも供されるリーディングテキストとして、多くの方々に活用されることを望みたいと思う。
 
 第一回では、さらに、かねてより気になっていた東京朝日新聞と大阪朝日新聞の異同の実態を考察する目的もあった。漱石の小説は、東京版と大阪版の両方へ、その多くは同じ日に、掲載されることが多かったが、しかしその本文は同一というわけではない。ちょっと見ただけでも、両者には、挿絵の有無だけでなく本文にも多くの異同・バリアントが存在することがわかる。これはどのような過程で生じたのであろうか。
 驚いたことに、こうした本文異同については、なんども執筆・編纂された朝日新聞社の社史ではどこにも触れられていない。本文の編集実態の考察は社史の重要な側面であるべきで、それによって他の多くの側面にも新たな光を当てることができる。日本にも印刷史家(typographer)と言われるような人がいないわけではないが、このあたりに注目してきた研究者は皆無のようであった。そこでとりあえず私自身が行った内的考察(外的資料が乏しいために、考察の対象とする新聞そのものを物理的に調査・分析することによって推定され得た結果)では、多くの場合まず東京版が自筆原稿を元にして組まれ、そのゲラ刷りの類をもとに大阪版が組まれたという程度のことまでは判明した。大阪の方へ自筆原稿が送られた逆のケースもある。このあたりは今後の詳細な研究が必要である。
 本復刻全集の本文は、右に述べたような趣旨で東京版に統一したが、大阪版本文の主な異同及び挿絵類も掲載して、両者の相違を端的に示せるよう配慮した。大阪版にしか掲載されなかったいくつかの小品については、大阪版に拠ってこれを掲載し、その点を明記している。
 
 漱石復刻全集の第二回『雑誌小説』全五巻の製作にあたっては、次の二つの点を強調することとした。
 第一点は、本文自体が同一でも、それに伴う「物理的形態」によって「意味」は違ってくるということである。この「物理的形態」、すなわち英語で言うところの 'the material forms of books' あるいは 'the non-verbal elements of the typograhical notations within them' は、「作者」よりも「読者」を重視する傾向の批評にはとりわけ無視できない意味を持ってくる。そのため、復刻に際しては本文が存在するページだけでなく、扉や目次のページまで、なるべく多くの情報を提示するようにした。内容見本の「監修のことば」にも次のように書いた。
 
 近代文学の編纂においては、雑誌や新聞にはじめて発表された初出誌の本文かその後に刊行された初刊本(初版本)の本文かのどちらかを底本にする場合が多い。新しい井伏鱒二全集においては「初収録単行本」すなわち初刊本が底本にされたが、その根拠として編者らは、井伏においては初出はまだ「試作」の段階にあり、その後作者によって手直しされた「初収録単行本」に至り「一応の完成品」になったと述べている。
 では漱石の場合はどうであろうか。現在ある出版社が漱石小説の注釈全集を刊行中で、その本文は初刊本をベースにしているようである。しかしたとえば『坊っちやん』の初出誌『ホトゝギス』の本文と初版『鶉籠(うずらかご)』に収録の本文とを比べてみてほしい。だれでも『鶉籠』の誤植の多さにはおどろくであろう。と同時にこの本文は初出誌の単なるリプリント(derivative reprint)に過ぎないと容易に思えるはずである。事実漱石小説の初刊本には、『三四郎』における数行の手直しを除くと作者自身の直接的な手直しは皆無であり、本文批評上も独自な本文(substantive text)とはいえないのである。
 といっても漱石初刊本に価値がないわけではない。漱石(及び出版社)は、その刊行に際し本文の見直しよりもむしろ造本の視覚的・感覚的な側面、すなわち活字のデザインや組み方、装丁や挿絵に対して力を入れた。これによって本文は、初刊本の「物理的」形態(physical object or sign)と一体となって、新たな、独自な「意味」を帯びてくるからである。但しこのような本文は出版物の形態のままで読むべきで、それだけを全体から抽出・引用したり常用漢字化してしまっては独自色をなくしてしまう。上の注釈全集のように、「テクストをそれが生み出された時代に置いてみること…作者ではなく読者に焦点化したもの」と謳うのであればなおさらであろう。
 
 第二の重視点は、「あるべき復刻版製作とは何か」ということであった。日本に限ることではないが、少数の例外を除き復刻版は機械的に安易につくられる傾向がある。本復刻全集シリーズではとりわけ、漱石全集との併用ないしはその代替・リーディングテキストとしての使用を謳っているので、その点の反省に立ち初出原典の調査には例外的な手間をかけた。具体的には次のことを考え実行に移した。
 
 文献の復刻においても本文の編纂においても、初期段階での調査はみな同じである。すなわち、編纂・復刻の底本となる同一版(号)をできるだけ多く集め、これらを校合し、一見同一に見える本文中にも異同(press variants) が存在しないかどうかいちいち確かめる。版(雑誌なら号)が同じなら中身(本文)も同じだと思っている素朴な人がいまだに存在するが、さまざまな物理的過程を経て何千部も刷られる印刷物であれば、本当に同じかどうかは調べてみなければわからない。
 英米の出版物においては、このような考察過程を経て得られた「理想本」(ideal copy)、すなわち出版社(者)が公にしたいと望んだ出版物の完成形態、の把握を本文校訂の出発点としている。そこで、英米の一流出版物ほどではないが、各作品の掲載誌を平均十部調査し、異同の発見につとめ、訂正済み (corrected state) のページを復刻するようにした。つまり A Copy ではなく The Copies の復刻ということになる。十部といっても発行部数全体からすれば微々たる数であり、校合にも完璧は期しがたいが、しかしこの作業の結果、新『漱石全集』の校異表で「一字欠」と記録される箇所の過半数に印字の存在を確認できた。詳細は当復刻全集の、特に第二巻に収録の『薤露行』と『カーライル博物館に蔵する遺書目録』を参照されたい。後者のこの標題は、これまで欠字が原因で、全集類にこのようにフルタイトルで表記されることはなかった。
 
 漱石復刻全集第三回を編纂するに当たっての基本的な問題は、何をどれだけ集め復刻するかということであったが、この点で多くの情報を与えてくれたのは岩波書店歴代の『漱石全集』であった。同全集の長年の資料収集努力がなければ本復刻全集の編纂は困難であった。また、書誌に明記してあるが、岩波書店からは、貴重な所蔵資料の提供もうけた。
 本復刻全集は、第一回、第二回には含まれなかった評論(談話・アンケート類を含む)、講演、翻訳、序文等を中心に、二百点を超える初出資料群を掲載している。この中には通常ではめったに見られない、おそらくは unique copy(一点しか現存しない)とみなされるものも含まれている。この点だけでも当全集の価値は小さくないであろう。中には、第六巻、明治四十三年分の最後に収録した「対話」のように、「『猫』の著者」とはあっても「生身」の漱石が直接に関係したとは思いにくいものも含まれているが、現実にこのようなかたちで公になったという事実に鑑みて収録することにした。
 変ったものでは、活字印刷ではなく漱石山房原稿用紙その他に自筆で書かれた本文をそのまま写真版で掲載した「不折俳画の序」『不折俳画』明治四十三年三月一二日(第六巻に収録)、「題丙辰溌墨」『不折山人 丙新溌墨』大正五年九月二五日(第八巻に収録)、「三愚集」『三愚集』大正九年七月二十八日(第八巻に収録)のようなものも含まれている。これらには活字化した本文を参考までに添付してある。
 掲載されたメディアの大部分は新聞と雑誌であり、復刻の方針は第一回、第二回を踏襲している。すなわち東京と大阪の両朝日新聞に掲載されたものについては、その両者を詳細に校合、異同の記録につとめ、雑誌類に掲載されたものについては、複数部を照合・校合し欠字等の補訂につとめている。少数含まれる単行本についても可能な限り複数部を参照した。
 新『漱石全集』は資料の分類のしかたでいささか問題がある。講演であったものでも、「漱石の校閲を経たもの、あるいは「創作家の態度」や「私の個人主義」のように全文筆記された原稿が残っているものについては同全集第十六巻に評論として収録した」、つまり講演の中には入れていないという点である。本復刻全集では、実際に講演されたものはすべて「講演録」としてある。それ以前の『朝日講演集』に収められた「道徳と職業」「現代日本の開花」「中身と形式」「文芸と道徳」についても、新『漱石全集』は第十六巻「評論」に収めているが、本復刻全集(第六巻)では、講演録の区分に入れてある。当たり前のことだが。
 標題の付け方にも少々問題がある。たとえば「私の個人主義」なる標題は、新『漱石全集』が底本とした自筆原稿には存在しない。そこでは単に「講演」となっている。同漱石全集の後書にもあるように、今日知られているこの有名な標題は、当復刻全集第八巻に含まれる『現代文集』への収録にあたってはじめて題されたものである。自筆原稿を底本にするほどのこだわりを見せる以上は、そこに存する標題をもプライマリーに扱うべきであろう。本文と標題は一体であり、このあたりにも第二回復刻全集で強調したような、メディアとその物理的形態への認識の甘さが認められるような気がする。
 
(三)新たな地平を切り開くために
 
 ここにひとまず完結を見た「漱石初出復刻全集」三部作は、以上に述べてきた点以外にも次のような製作意図を込めていた。すなわち、「夏目漱石」という作家の著作群が、その発表時、すなわち初出(first appearance in print)において、どのようなメディア形態に拠り、どのように編集・印刷されていたのか、そのありさまを従来の年表や解説といった手段よりも一段と具体的に、臨場感豊かに示すことであった。それによって、漱石に関わる貴重な日本近代の文化遺産の数々が、個々及び全体において、いかなる有機的交わり方をなしていかに成立・受容に至ったか。そうした考察にいささかでも資するためであった。
 ここには、今後の文学研究・文化研究の核になるといってもいい「書物史」研究への意識がある。日本でこの方面の研究を発展させ広く浸透させるためには、その具体的情報源が少数の研究者に限定されるのではなく、一般読者多数に至るまでに広く供与されることが望ましい。そのためにこのコンセプトの復刻版全集を役立てたいのである。
 近年、世界的規模で書物史の研究が充実してきた。従来の「出版史」(history of books) が、メジャーな出版物・出版社等の個々具体的な考察を主たる任務としたのに対して、「書物史」(history of the book)とは、「テクスト」(写本・印刷本・地図・楽譜・その他パンフレット類)(注10)の名で総称されるこれらの情報伝達メディアが、人類の歴史上・文化史上に果たしたさまざまな役割(the role of the book in history) を分析し明らかにすることである。
 「書物史(読書史を含む)」といっても、英米ではBibliography(日本で「書誌学」と訳されているが、意味的には「情報伝達学」のこと)の一部門とみなすべきで、フランスからの影響はあるが、グレッグ当時からの Historical Bibliography の発展形といえる。
 「書物史」という名称を使い出したという点では英国はフランスよりも後発であるが、最近、D. F. マケンジーらの尽力によって、外的証拠に依存し過ぎなフランス的方法の弱点を、同国伝統の「本文書誌学」(textual bibliography)的方法(内的証拠)の導入・併用によって克服し、日本でもおなじみのフランスのロジェ・シャルチエらからも高い評価を受ける精緻で完成度の高い書物史を誕生させた。(注11)英国のこの方面の研究は、歴史学者が主に関わるフランスとは違い、英文学関係者が多く関わってきたので、新刊の『ケンブリッジ版英国書物史』(注12)が示すように、'more literary and bibliographical than conventionally historical' となる。現存する外的証拠すなわち古文書類からの情報だけでは不足しがちで、ややもすると抽象的記述に流れやすいフランス流に対して、英国の方法はあくまでも具体的である。「本文書誌学」が存在しないフランスには眞似のできない方法で、考察の対象となる原典一点一点そのものの物理的細部の精査の中から、種々な情報を導き出す。(注13)
 ここにおいて英国の書物史は、従来からの文学・本文研究との一体感をさらに深めることになったのである。書物史の研究もまずは本文(研究)からということであり、一本一本の木ともいえる本文の「元をただす」ことによって、大きな森といえる書物史の考察はさらに深まるといえよう。
 私は今後日本においても、こうした高度な書物史の方法論をモデルとして、いろいろな模索が行われることを期待している。本文への関心は、それ自体の編纂・校訂にとどまらず、「新たな地平を切り拓く」書物史の発展・充実にも密接に関わってくる。本復刻全集がそのための環境整備へのささやかな一歩になれば幸いである。
 
(注)
 
(注1)毎度のことながら、当復刻全集の出版には多くの人が関わっている。とりわけ、資料の発掘から書誌・年表の作成、造本に至る全過程において、大半の仕事を精力的にこなしたのは、ゆまに書房編集部の高井健氏である。同編集部顧問の藤田三男氏からは、前二回と同様今回も編集全般へ並々ならぬご配慮をいただいた。三部作の装丁はすべて藤田氏のすぐれたデザインに拠っている。多額な資金と時間を要した三部作の出版であったが、ゆまに書房代表取締役荒井秀夫氏は終始協力を惜しまれなかった。深く感謝したい。復刻資料の所蔵機関に対しては、各々の資料の書誌に明記してあるが、ここでも改めてお礼申し上げたい。
 
(注2)Steven N. Zwicker 'Early Modern Reading: Habits and Practices, Protocols and Contexts' 『英語青年』(二〇〇二年五月号、七八ー八一頁)
 
(注3)直後に出版した拙著『本文の生態学―漱石・鷗外・芥川』(日本エディタースクール出版部、平成五年)の「あとがき」でも触れたが、平成五年四月にニューヨークで行われたSTS (Society for Textual Scholarship) の第七回大会、Fredson Bowers を追悼する特別シンポジウム 'A Force in his Field: Fredson Bowers's Wider Influence' に出席し、'Fredson Bowers and the Editing of Modern Japanese Literature' の題で発表を行った。後日出版された TEXT, Transactions of the Society for Textual Scholarship, Vol. 8, Michigan, 1995, 85-100. に発表の全文が掲載されている。
 十六・十七世紀英文学とりわけシェイクスピアに重点を置いたグレッグ・バワーズの「英米書誌学・本文研究理論」がそれ以外の分野で最初に大規模な適用を受けたのは、一連のアメリカ十九世紀小説全集の編纂においてであった。いかにもアメリカ的で、大規模な研究費にものをいわせて設立されたセンターCEAA (Center for Editions of American Authors) 公認の全集が多数出版された。
 
(注4)Edmund Spenser: The Faerie Queene, edited by A. C. Hamilton, Text edited by Hiroshi Yamashita and Toshiyuki Suzuki (Pearson Education, 2001)
 
(注5)実際問題として、日本で英文学の修士を終えてから英国へ留学したとはいうものの、私は日本で英米Bibliographyをほとんど学んでいなかった。日本の本文研究やその用語についても知識がなかった。留学から帰国後、漱石の本文を調べるようになったわけだが、論文の執筆・発表をしばらく控えていた事情の一つには、英語で学んだものを日本語でどのように言い表すか、英語に対応する日本語の語句や表現をなかなか見つけられないということがあった。今になっては隠したいほどのことであるが、帰国直後の書き物で、「異同」とすべきところを、英語の 'transmissional variants' から連想して、同音の「移動」と書いたりしている。
 しかし日本における用語の使い方を見るにつけて、そのおおざっぱさ、曖昧さには驚かざるを得なかった。その多くは元が英語なので私としても想像がつくのだが、生半可な英語の勉強による誤解が積み重なった結果のようであった。例えば、「書誌」とか「書誌的」といった妙な言い方があって、これがどうも「書誌学」、「書誌学的」を合わせた意味で使われている。書誌学が書誌をつくる技術だとでも勘違いしたところからきているのであろう。この種の誤解を与える文献は今でも巷に氾濫している。『日本近代書誌学協会 会報』(第三号ー第六号、一九九八年二月ー一九九九年十一月)を参照。「アンカット」の誤用も有名な例である。本復刻全集第一巻「序」(『吾輩ハ猫デアルである』序文)の書誌を参照されたい。「テクスト」については(注10)を参照。今ではとっくになくなったはずの「文献学」という語が日本では堂々と使われているのも奇っ怪である。
 その結果当然であるが、書物史を含む文献の翻訳類にはひじょうに誤訳が多い。
 
(注6)「自筆原稿とは何か―作品確定の資料・判断は編者」『朝日新聞』(東京版夕刊、1994.4.1)、『漱石研究』第三巻(翰林書房、一九九四)の「インタビュー」を参照。
 
(注7)その一部を以下に引用する。「原稿から漱石テクストを構築することが、書斎にこもる漱石を原点として考えることだとすれば、新聞や雑誌などの初出メディアにこだわることは、雑踏のなかに漱石を見ようとする試みだと言えるかもしれない。前者がどうしても作者を聖典化するのに対して、後者は近代の活字文化を生きて、俗にまみれることを避けなかった漱石をとらえることになるだろう。まして完全編年体となるこの評論・講演全集は、自筆原稿のあるものも、ないものも同列に、時間的に順を追って配置することになる。もちろん、当時の読者たちには自筆原稿の存在など見えていなかった。」
 
(注8)私はこのあたりの問題を一九九〇年、三好行雄編『夏目漱石事典』(學燈社)に収録した「本文批判の問題」においても真っ先に論じている。「注1」に、「はじめに断っておくが、「絵で考え、絵で息をした」といわれるほどに絵好きで、造本にも並々ならぬ手腕を発揮した漱石の場合、本文の確定だけがすべてというつもりはない。」と書いた。
 この拙論は、拙著『本文の生態学』に先んじながらも、私の包括的な立場を端的に示す内容となっており、ロングマン版『妖精の女王』の本文編纂も、ある意味ではこの論文の実践といっていい。その点は最近の拙論「The Faerie Queene 編纂記―地に足を着けた英文学研究のために」『英語青年』(研究社、二〇〇二年三月号)において具体的に記されている。
 
(注9)『本文の生態学』の第四章(『羅生門』の実験的本文)を参照されたい。グレッグ底本理論をこの作品に適用してみせたのは、誰にでも馴染みがあるできるだけ短い作品、という条件においてであった。この本文自体を私が理想の本文と考えているわけではない。作者の存在を重視した校訂を心がけるかぎり、「作者の最終手入れ原稿の復元」を唱えるグレッグのコンセプトが古くなることはない。
 
(注10)The Cambridge History of the Book in Britain, Vol. 3, Cambridge, 1999. において「テクスト」は、'texts: manuscripts, printed books, maps, music, graphic images' と定義されている。最近の日本におけるこの語の余りの不用意な使われ方は、日本の研究者の多くの未成熟ぶりを端的に示すといっても過言ではないであろう。拙稿「特集:イギリス書物革命を読んで」『英語青年』(二〇〇二年九月号三九三頁)を参照。
 
(注11)The Library (June 2002, 207-210)の書評を参照。
 
(注12)注10を参照。
 
(注13)こうした英国流の方法のわかりやすい例をあげれば、『本文の生態学』の第二章「印刷工程に起因する本文移動―『吾輩は猫である』『坊っちやん』を通して」を参照されたい。自筆原稿に残された文選工のサイン(朱肉の代わりに捺された二号活字)からその各々の担当箇所を特定し分析することによって、当時の印刷所(秀英舎)の現場の様子や、恐らくは大をなす前の若き「島」蓮太郎(一八八〇ー一九四一)の仕事ぶりをかいま見ることができる。島は『明治大正日本印刷術史』の著者としても著名である。